知られざるジャガイモの歴史:食卓を変えた奇跡の軌跡

食卓に欠かせない存在、ジャガイモ。その歴史は、アンデスの高地でひっそりと始まった、知られざる物語です。南米原産のジャガイモは、大航海時代を経てヨーロッパへ渡り、飢饉を救う救世主として、またたく間に世界中に広まりました。この記事では、私たちが普段何気なく口にしているジャガイモの歴史を紐解きます。食卓を彩るジャガイモのルーツを辿る旅へ、一緒に出かけましょう。

ジャガイモとは

「ポテト」の名で知られるジャガイモ(学名: Solanum tuberosum)は、南米アンデス地方が故郷のナス科植物です。世界各地で栽培されており、地中の茎が肥大したものが食用とされます。

調理法は多岐にわたり、揚げ物、蒸し料理、煮物など、様々な料理に利用されます。また、コロッケやポテトチップスといった加工食品の原料としても重要です。保存性に優れているため、食料として重宝され、主食となることもあります。ビタミンCやカリウムなどの栄養素が豊富に含まれているのも特徴です。ただし、発芽した芽や、日光にさらされて緑色になった皮には有害な成分が含まれているため注意が必要です。

ジャガイモは世界中で広く食されている、重要な食料資源の一つと言えるでしょう。

ジャガイモの由来

17世紀初頭、オランダの船がジャワのジャガトラ(現在のジャカルタ)から日本へ持ち込んだものが、「ジャガタライモ」と呼ばれ、それが変化して「ジャガイモ」という名になったと言われています。また、中国語名の「馬鈴薯」(ばれいしょ)も一般的に使われ、日本の行政機関でもこの名称が用いられています。中国語の発音は「マーリンシュー」です。日本では、18世紀に本草学者の小野蘭山が著書『耋筵小牘』(1807年)で命名したとされています。名前の由来には、ジャガイモの形状が馬につける鈴(馬鈴)に似ているという説があります。中国では、「土豆(トゥードウ)」、「洋芋(ヤンユー)」、「薯仔(シューザイ)」など、多様な呼び名が存在します。

英語の「ポテト (potato)」という言葉は、元々タイノ族の言葉でサツマイモを指す「batata」が、スペイン語で「patata」に変化したことに由来します。ジャガイモの原産地で古くから使われているケチュア語では「papa」と呼ばれており、これは現在でも中南米のスペイン語で使われています。スペイン語で「batata」が「patata」に変化したのは、「papa」の影響だと考えられています。「Papa」がローマ教皇を意味する単語と同じであったため、それを避けて「Patata」へと変化したという説も存在します。

ジャガイモの歴史

南米アンデス山脈を故郷とするジャガイモは、その祖先となる小さなイモが中南米に自生していました。大航海時代、ヨーロッパに渡ったジャガイモは、東南アジア経由で16世紀に日本へ。長期保存が可能なため、船乗りたちの重要な食料となりました。その後、品種改良が進み、現在のような大きなイモを実らせる品種が誕生。世界中の温暖な地域で栽培されています。

日本への伝来

ジャガイモの日本への伝来については様々な説がありますが、一般的には1598年にオランダ人が持ち込んだとされています。ジャワ島のジャガタラを経由して長崎に伝わったことから、当初はジャガタライモと呼ばれていましたが、略されてジャガイモという名になったとされています。

江戸時代後期になると、ロシアの影響で北海道や東北地方にもたらされ、飢饉対策として栽培が広まりました。蘭学者の高野長英は、その栽培を積極的に推奨しました。また同時期には、甲斐国の代官であった中井清太夫もジャガイモの栽培を奨励し、小野蘭山も甲斐国黒平村(現在の山梨県甲府市)での栽培を記録しています。さらに、北海道のアイヌ民族もジャガイモを栽培していました。探検家の最上徳内が、寛政年間にアブタ場所(現在の洞爺湖町虻田地区)に種芋を持ち込み、地域住民に栽培を指導したことが、北海道におけるジャガイモ伝来の始まりとされています。

本格的な導入は明治維新後で、北海道開拓において重要な役割を果たしました。アメリカでウィリアム・スミス・クラークに師事し、「いも判官」と呼ばれた初代根室県令の湯地定基が普及に尽力しました。川田龍吉男爵は、アメリカからアイリッシュ・コブラーという品種を導入し、自身の農場で栽培して広めました。この品種は彼の爵位にちなんで「男爵いも」と呼ばれるようになりました。当初は西洋料理の食材として需要がありましたが、洋食の普及とともに、肉じゃがなど日本の家庭料理にも徐々に取り入れられるようになりました。しかし、1968年時点でも北海道副知事が「半分以上はでんぷんのみとって、残りは飼料」と述べるなど、消費拡大は緩やかでした。

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