和菓子

日本の心を映す鏡、和菓子。それは単なる甘味ではなく、四季折々の自然、歴史、そして職人の技が凝縮された芸術作品です。一口食べれば、繊細な甘さと共に、日本の美しい風景や文化が鮮やかに蘇ります。この記事では、伝統的な製法を守りながらも、新しい素材やアイデアを取り入れ、進化し続ける和菓子の世界へご案内します。さあ、奥深い和菓子の魅力に触れる旅に出かけましょう。

和菓子

日本の伝統的なお菓子である和菓子は、その製法や水分量によって、生菓子、半生菓子、干菓子と分類されます。これは、明治時代以降に海外から入ってきた洋菓子と区別するために用いられる言葉で、具体的には、餅菓子、羊羹、饅頭、最中、落雁、煎餅などが含まれます。また、歴史を遡ると、遣唐使が持ち帰った唐菓子や、近世に南蛮やオランダから伝来し、日本で独自の進化を遂げた南蛮菓子も、和菓子の一種として位置づけられます。洋菓子と比較すると、和菓子は油脂や香辛料、乳製品といった調味料の使用が少ない傾向にあります。主な原材料は、米や麦といった穀物、小豆や大豆などの豆類、葛粉などのデンプン、そして砂糖です。特に、豆類を加工して作られる餡は、多くの和菓子において重要な役割を果たしています。和菓子は一般的に緑茶との相性を考慮して作られ、日常のお茶請けとして親しまれるだけでなく、茶道の世界とも深く結びついています。また、様々な年中行事や慶弔事の贈り物としても用いられます。季節との密接な繋がりも和菓子の大きな特徴であり、特に上生菓子と呼ばれる高級な生菓子では、多様な製法を駆使し、その美しい見た目を通して豊かな季節感が表現されています。江戸時代には、比較的安定した社会情勢と文化・経済の発展を背景に、和菓子は大きく発展しました。この時代に、現代に繋がる様々な和菓子が誕生し、日本各地で独自の和菓子文化が花開きました。そして、四季折々の風情を象った、色とりどりの練り切りもこの時代に生まれ、和菓子を現在の形へと根本的に進化させました。

歴史

古代日本では、米、粟、稗といった穀物が主な食料であり、狩猟や漁撈で得られた動物性タンパク質も摂取されていました。また、人々は空腹を満たすために、木の実や果物といった自然の恵みも利用しており、これらが、今日におけるお菓子の原型になったと考えられています。特に果物は、「水菓子」と呼ばれていました。当初は生のまま食されていましたが、保存のために乾燥させたり、木の実を灰汁で煮て粉にし、粥状や団子状にして食べるなど、工夫が凝らされるようになり、これらが現代の団子や餅へと発展していきました。『古事記』や『日本書紀』には、垂仁天皇の命を受けた田道間守が、不老不死の地で「非時香菓(ときじくのかくのみ)」、すなわち橘を持ち帰ったという記述があります。この故事から、果物が菓子の始まりとされ、田道間守は菓祖神として崇められています。704年、文武天皇の時代には、遣唐使の粟田真人によって唐菓子が日本に伝えられました。これらの菓子は、米、小麦、大豆、小豆などを粉にして練り、甘味噌で味付けして油で揚げたものでした。唐菓子は、仏への供え物や神への捧げ物として重んじられ、現在でも熱田神宮、春日大社、八坂神社などでその名残を見ることができます。奈良時代の754年には鑑真によって砂糖や蜂蜜が、平安初期の806年には空海によって煎餅の製法が伝えられましたが、砂糖をふんだんに使った現代のような多様な和菓子が一般的に作られるようになったのは、それから約850年後の江戸時代のことです。鎌倉時代になると、栄西が宋から茶の種を持ち帰り、茶の栽培と喫茶の習慣が広まりました。喫茶文化とともに点心が伝わり、その中から饅頭や羊羹といった、現在の和菓子につながるものが生まれましたが、当時のものは現在とは異なり、料理に近いものでした。例えば、饅頭は汁物や漬物と一緒に箸で食べる料理であり、中には野菜などの具が入っていました。饅頭は、仁和寺の龍山徳見に師事した林浄因によって伝えられたという説があり、浄因は奈良に住み着き、日本で最初の饅頭である「奈良饅頭」を販売したと伝えられています。当初、饅頭の餡には中国の習慣に従って羊や豚の肉が使われていましたが、肉食の習慣がなかった日本では、浄因が肉の代わりに豆類を使った餡を考案し、それが全国に広まったとされています。室町時代には、砂糖を使った饅頭が登場し、これが現在の饅頭の原型となりました。また、同じくして伝来した羊羹も、元々は羊の肉を使った汁物でしたが、肉食の習慣がない日本では小豆を使ったものに改良され、さらに汁気を取り除き、1600年代に寒天が発明された後、1800年頃に現在の寒天を使った羊羹へと発展しました。室町時代には、ポルトガル、スペイン、オランダの宣教師によって、カステラ、ボーロ、金平糖、カルメラといった南蛮菓子がもたらされました。小麦粉や砂糖を使ったこれらの菓子は、和菓子の製法や発展に大きな影響を与えました。これらの南蛮菓子も、その後日本人の手によって改良され、カステラには水飴が加えられてしっとりとした食感になり、底にザラメ糖が敷かれるようになりました。金平糖は、伝来当初はゴマやケシの実を核とした糖衣菓子でしたが、日本では砂糖のみを使った菓子へと変化しました。江戸時代に入ると、社会が安定し、経済や文化が大きく発展したことで、多種多様な和菓子が誕生し、現代につながる和菓子文化が花開きました。慶長から寛永にかけての時代には、和菓子の名に四季の風情や古典文学が取り入れられるようになり、元禄文化が栄えた元禄年間には、琳派の影響を受け、和菓子の形や色にも四季折々の風情や古典文学の要素が表現されるようになりました。それまで貴重品だった砂糖の輸入が増え、徳川吉宗の増産政策によって国内の砂糖自給率が向上し、和三盆が生まれました。日本独自の製菓技術が発展し、江戸で武士や庶民に親しまれた江戸菓子、京都の雅な京菓子がそれぞれの形を整えていきました。京都土産として有名な八ッ橋もこの時代に誕生しました。参勤交代制度によって各地の街道が整備され、人々の往来や情報交換が活発になり、各地の銘菓や名物菓子が知られるようになりました。四季の風情を写し取った美しい意匠を持つ練り切りも、この時代に生まれました。これらの和菓子の美しいデザインや風流な銘は、『御蒸菓子図』などの絵図帳に色鮮やかに記録されました。飴や飴細工が庶民の間で流行し、飴屋や行商人が大道芸やからくり人形、女装などを披露しながら街を売り歩きました。このようにして、江戸時代には現在の和菓子のほとんどが形作られました。明治時代になると、開国とともに西洋文化が流入し、チョコレート、ビスケット、ケーキ、キャンディーといった洋菓子が日本に次々と入ってきました。これに伴い、新しく入ってきた西洋風の菓子を「洋菓子」、それまでの日本の菓子を「和菓子」と区別するようになりました。その後、あんパンやクリーム入りの饅頭といった和洋折衷の菓子や、西洋起源ではないものが日本で独自の発展を遂げたものなども生まれ、現代の日本では多様な菓子が共存する時代となっています。

種類

お菓子の分類は多岐にわたりますが、日本では一般的に、保存のしやすさという点で、水分量によって大きく3つに分けられます。それは、生菓子、干菓子、そして半生菓子です。この分け方は和菓子だけでなく洋菓子にも用いられます。水分量が30%を超えるものが生菓子、10%以下のものが干菓子、そしてその中間の10%から30%のものが半生菓子とされています。ただし、食品衛生法ではさらに細かく規定されています。「生」という言葉は加熱の有無を意味するのではなく、水分量が多い焼き菓子も生菓子に含まれます。保存性に着目すると、生菓子よりも半生菓子、半生菓子よりも干菓子の方が、より長く保存できます。具体例としては、餅菓子や饅頭は生菓子、煎餅や落雁は干菓子、最中などは半生菓子に分類されます。また、羊羹や求肥のように、作り方によって水分量が変わり、生菓子にも半生菓子にもなりうるものもあります。

製法による分類

日本の伝統的な和菓子は、その製法や材料によって様々な種類に分類されます。代表的なものとしては、もち米や米粉を主原料とする「もち菓子」、焼いて作る「焼き菓子」、そして餡などを練り上げて作る「練り菓子」などがあります。同じ材料、同じ製法であっても、水分量のわずかな違いで、生菓子、半生菓子、干菓子のいずれかに分類されることもあります。例えば、「もち菓子」の代表的なものには、おはぎ、大福、桜餅、すあまなどがあります。これらは、もち米やうるち米を加工して作られます。「蒸菓子」には、饅頭、軽羹、ういろうなどがあり、生地を蒸して作られています。「焼き菓子」は、焼く方法によって「平鍋もの」(どら焼き、桜餅など)と「オーブンもの」(栗まんじゅう、カステラなど)に分けられます。また、ボーロのように焙焼してパリッと仕上げたものは「干菓子」に分類されます。「流し菓子」は、寒天などを型に流し込んで作るもので、羊羹や水ようかんなどがあります。その他、「練り菓子」は、練り切りや求肥など。「揚げ菓子」は、あんドーナツやかりんとうなど。「あん菓子」は、石衣など。「おか菓子」は、最中や鹿の子餅など、様々な種類が存在します。さらに、砂糖漬け菓子(甘納豆など)、打菓子(落雁など)、押し菓子(志ほがまなど)、掛け菓子(雛あられ、おこしなど)、飴菓子(有平糖など)、豆菓子(炒り豆など)、米菓(あられ、煎餅など)といった種類があり、それぞれ独特の製法と風味を持っています。

用途による分類

生菓子の中でも、普段のお茶請けとして親しまれているものは、並生菓子、または朝生菓子と呼ばれます。これには、もち菓子、蒸し菓子、平鍋で焼いたもの、おか菓子などが含まれます。「朝生菓子」という名前は、その日に作ってその日のうちに食すという意味合いがあります。それに対し、こなしや練り切り、求肥を主な材料としたり、異なる色合いの素材を組み合わせた羊羹などは、上生菓子として区別されます。上生菓子は、素材の持ち味を生かしつつ、高度な技術を用いて、季節の風景を写実的、あるいは抽象的に表現した、見た目も美しい菓子です。用途や目的に応じた分類・名称としては、献上菓子(朝廷への献上品)、上菓子、有職菓子(格式高い菓子)、茶席菓子などがあります。茶席では、生菓子を主菓子、干菓子を添え菓子と呼び、濃茶には主菓子、薄茶には添え菓子が用いられます。薄茶のみの茶会では、両方を用意するか、添え菓子のみでも構いません。茶席菓子は、2、3口で食べられる程度の大きさで、素材の風味を損なわない甘さが特徴です。また、茶会の季節に合わせたデザインや菓名を選ぶことが重要です。引菓子は、お祝い事や弔事の引き出物として使われる菓子で、お祝いには紅白饅頭や餅菓子、弔事には葬式饅頭などが用いられます。式菓子は、しきたりに沿って用いられる菓子のことで、引菓子と同様に扱われることが多いです。発表会の土産として贈られる蒔きもの菓子は、演目にちなんだ意匠が凝らされています。縁起菓子は、縁起物として寺社の参道や境内で売られる菓子のほか、菓子店が創作した商品もあります。工芸菓子は、食用ではなく、展示・観賞を目的に作られる菓子で、雲平や有平糖などを使い、山水や花鳥を写実的に表現します。

季節による分類

日本の伝統的な甘味である和菓子は、四季折々の変化と深く結びついています。季節感を大切にする点が、和菓子の大きな魅力の一つと言えるでしょう。期間限定で販売される商品も多く、特に上生菓子においては、その美しい意匠によって季節の風景や風物が表現されています。そして、それぞれの菓子には趣のある名前が付けられています。また、雛祭りや盆など、特定の年中行事の際に供えられたり、食されたりする和菓子も存在します。これらの和菓子の中には、俳句などで季語として用いられるものもあります。例えば、新春には菱葩餅や初夢(茄子の砂糖漬け)、干支菓子などが楽しまれ、春には桜餅、椿餅、鶯餅、蓬餅、花見団子、雛菓子(雛あられ、菱餅、引千切、草餅)などが親しまれます。夏には柏餅、ちまき、若鮎、水無月、葛切り、水羊羹、水まんじゅう、麩饅頭などが涼を呼び、秋にはおはぎ、月見団子、栗蒸し羊羹、栗饅頭、栗きんとんなどが味わわれます。そして冬には、亥の子餅、お火焚饅頭、千歳飴などが登場します。

材料

和菓子作りには、豆類、米粉などの粉類、そして砂糖類が欠かせません。中でも豆類を加工した餡は、和菓子の基礎として特に重要視されています。小豆を煮て作る赤い色の餡は「赤あん」と呼ばれ、漉し方によって、こしあん、粒あん、つぶしあんと区別されます。水飴を加えて作る「ネキあん」や「飴あん」もあります。白い餡は、手亡や大福豆などの白インゲン豆から作られることが一般的ですが、高級品には白小豆を使ったものもあります。青エンドウ豆は甘く煮てうぐいす豆に、またうぐいす餡の原料にもなります。白あんをベースに、ぎゅうひを混ぜれば練り切り、小麦粉や米粉を混ぜればこなしが作られます。各種の餡をそぼろ状にしたものは「きんとん」や「そぼろ」と呼ばれ、上生菓子では、これらの素材を組み合わせて季節の美しい風景を表現します。豆類は、炒り豆や豆菓子としても親しまれています。粉類は、米粉と小麦粉が中心です。米粉は、もち米とうるち米の2種類に分けられます。もち米を粉にした餅粉は、餅菓子やぎゅうひに使われ、白玉粉は、ぎゅうひや白玉団子の材料になります。水飴を加えた「ぎゅうひ」は、求肥餅や求肥飴とも呼ばれ、様々な和菓子に用いられます。道明寺粉は、道明寺桜餅やみぞれ羹に使われ、細かく砕いて焼いた新引粉は、落雁や菓子の仕上げに使われます。うるち米を加工した上新粉は、草餅や柏餅の材料となり、上用粉は、ういろうや薯蕷饅頭に使われます。砂糖は、甘味だけでなく、保水性や保存性を高める役割も担います。一般的な砂糖の他に、和三盆や黒砂糖も使われます。和三盆は、独特の風味があり、干菓子に用いられます。その他、水飴、寒天、葛粉、わらび粉、薯蕷なども和菓子に使われます。水飴は飴菓子や掛もの菓子に、寒天は羊羹やみつまめに、葛粉やわらび粉は涼しげな和菓子に、薯蕷は薯蕷饅頭や軽羹に使われます。近年では、和菓子と洋菓子の要素を組み合わせた和洋折衷菓子や、伝統的な技法に現代的な要素を取り入れたネオ和菓子も登場しています。博多通りもんやざびえるは、白餡にバターを使用するなど、和洋折衷の味わいが特徴です。どら焼きにホイップクリームを挟んだり、ロールケーキに餡を入れたりする例も見られます。ネオ和菓子は、SNS映えする見た目も人気で、若い世代や外国人にも支持されています。

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