和菓子は、日本の豊かな文化と長い歴史を象徴する美しい甘味です。その繊細な味わいや見た目の美しさは、季節や自然の移ろいを感じさせ、何世代にもわたって人々を魅了してきました。本記事では、和菓子の起源からその進化、さらには現代に至るまでの甘味文化の歩みを追い、美と技術が絶妙に融合する和菓子の伝統の美学を紐解きます。和菓子を通して、日本の独自の美意識と歴史の奥深さに触れてみましょう。
昔は果物が菓子だった
かつては「菓子」と言えば、果物や木の実を指していました。現在も果物を「水菓子」と呼ぶのはその名残とされています。
長期間、果物を意味した菓子ですが、奈良時代には現代のような加工食品としての菓子の意味も含まれるようになりました。これは海外文化の影響によるもので、当時の記録には「唐菓子(からくだもの)」として知られる料理が中国からもたらされました。これらは米粉などを使い、甘味料で味付けし、油で揚げるものが多かったようです。形や調理方法はいろいろありましたが、今はわずかにお供え物としてその名残をとどめています。
日本における最も古い加工食品
木の実を効率的に保存するために、日光で乾燥させたり、石臼や石槌を使って粉砕する方法が広まりました。当時は農業も始まっていましたが、食料が十分ではありませんでした。そのため、どんぐりなども貴重な食糧として利用されていました。どんぐりはアクが強いため、そのままでは食べられませんでしたが、粉にした後水にさらすことでアクを抜き、団子のようにして加熱するといった工夫がなされていました。これが団子の起源とも言われています。さらに進化を遂げ、最古の加工食品の一つである「餅」が生まれました。米を原料とする餅は、『非常に神聖なものとして扱われたのです。
奈良時代
奈良時代には、ところてんやかりんとう、あられやおかき、おこしが生まれるなど、和菓子文化の発展が見られました。
この時期は、中国大陸の影響が強く反映された時代で、特に唐から渡ってきた唐菓子が和菓子の発展に大きく寄与しました。
例として挙げられるのが、「ところてん」や「かりんとう」の技法で、これらは唐菓子から影響を受けたものです。また、「心太(ところてん)」という用語は奈良時代の文書で確認され、漢字での表記が示すように、中国から伝えられた文化を感じさせます。
同様に、あられやおかき、さらにはおこしというお菓子も奈良時代に登場しました。あられやおかきは、神事を起源としたもので、神様への捧げ物として供されました。
仏教が伝来し、宗教的な文化が定着する中で神に食物を奉納する習慣が始まり、それに伴って新しいお菓子が生まれる流れが形成されました。このように、神事に関連したお菓子は、その後の和菓子の伝統の一環として受け継がれていきました。
平安時代
平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて、ちまきやわらび餅、ぜんざい、おはぎ、最中などの和菓子が登場しました。
この時代は、約90年続く平安遷都から鎌倉幕府成立までの期間です。新たに、ちまきや亥の子餅、いが餅、花びら餅、わらび餅、ぜんざい、おはぎ、最中などの和菓子が誕生しました。これにより、和菓子の種類が急増し、まるで古代の和菓子ブームの様相を呈しました。
この時代、中国文化の影響が引き続き強く、古代中国の習慣や菓子の原型が日本に伝わることが多くありました。例えば、ちまきは中国の供え物の菓子として「端午の節句」と共に伝わり、亥の子餅は中国の無病息災を祈る儀式に由来しています。
また、平安時代は多くの祭事用お菓子が生まれました。いが餅、おはぎ、ぜんざいなど、神事に関連したお菓子が豊富な時代でした。
鎌倉・室町時代
鎌倉・室町時代から安土桃山時代にかけては、饅頭や羊羹、さらにはカステラといった南蛮菓子が日本に伝わりました。
この時代は、武士が勢力を持ち始めた時期で、古代と比較して貨幣を用いる商業経済も進展し、菓子店の存在も伝えられています。
鎌倉中期から室町中期にかけて、禅僧たちが持ち込んだ「饅頭」の文化が現在の日本の饅頭文化の始まりとなりました。
中国から受けた影響として、「点心」がありました。点心とは中国の伝統的な軽食文化であり、この時期に誕生した「羊羹」は、羊肉スープを模して、小豆と粉類を混ぜ合わせて作られた蒸し羊羹がその起源とされています。
また、室町時代の終わりから安土桃山時代にかけて、カステラ、ぼーろ、金平糖といった南蛮菓子(西洋菓子)も日本に紹介されました。
江戸時代初期
江戸時代の初めには、桃山、練り切り、きんつばといった和菓子が生まれました。
この時代は戦国時代が終わりを迎え、徳川幕府の成立により社会が安定し始めた時期です。和菓子業界も大きな変化の時を迎えます。経済が改善され、商品流通が活発化すると、砂糖の供給量が大幅に増加し、多様な和菓子が登場しました。
練り切りやきんつば、切山椒など、今でも受け継がれている数多くの伝統菓子がこの時期に人気を博し、あるいは定着しました。
デザイン性の優れた練り切りは、京都で発展した茶の湯文化に支えられて成長しました。この時期には、上品な茶請け菓子が多く登場しました。
江戸時代中期
江戸時代中期には、和菓子として今川焼やさくら餅などが生まれました。
和菓子は江戸中期になると、すっかりと大衆の間で親しまれるようになり、その中でも「今川焼」は特に注目されました。名物店の番付にも登場し、人々の間で日常の話題となったのです。
和菓子は地域ごとに異なるスタイルがあることも特徴の一つ。この時期に現れた「さくら餅」には、関東の長命寺風と関西の道明寺風という二つのバリエーションがあり、和菓子文化の豊かさを物語っています。
さらに、同時期に生まれた「塩がま」は、木型で材料を押し固めて作られる菓子で、当時の焼き型などの成形技術の発展が背景にありました。
江戸幕末期
江戸時代の後半には、栗きんとんやくず餅、柏餅といった和菓子が次々と生まれました。
栗きんとん、くず餅、柏餅、水羊羹、みぞれ羹、石衣、かのこ、甘納豆などは、現代でも知られている伝統的なお菓子です。中津川で誕生した栗きんとんは、交通インフラの整備が進んだおかげで広まりました。
しかし一方で、江戸中期から後期には自然災害や飢饉も相次ぎました。有名な天保の大飢饉の最中、くず餅が生まれ、多くの人々を救ったとされています。
明治時代
この時代は明治維新の影響で日本が近代化を進めていた時期です。和菓子においても、長い歴史の集大成の様相を呈しており、新たな創作だけでなく、既存の和菓子を元にした新しい菓子が数多く生まれていました。
たい焼きはその代表例です。今川焼が既に広まっていた中で作られたもので、和菓子の伝統を継承した形で誕生しています。
昭和から現代
明治以降、近代化が進み、昭和から今にかけて社会全体が豊かさを増してきました。その流れの中で、和菓子の文化も成長を続けています。材料の入手が容易になり、製造技術も進化したことで、和菓子作りの環境は一層整えられました。
あんみつは、その贅沢さで豊かさを体現しています。厳選された素材を使用したこの和菓子は、昭和初期の象徴といえるでしょう。
ただし、昭和の時代には戦争などにより、和菓子の生産が中断することもありました。戦争に伴う困難で、多くの老舗が閉店を余儀なくされました。
それでも困難を乗り越え、戦後には和菓子文化が見事に息を吹き返し、一層の発展を遂げて現在まで続いています。
茶道と和菓子について
鎌倉時代初期の1191年頃に、栄西禅師がお茶を大陸から伝え、やがて茶の湯が隆盛を極めました。室町時代の茶会では、食事以外の軽食として「点心」が提供され、その中でも「羹」という汁物が存在していました。例えば「猪羹」「白魚羹」「芋羹」「鶏鮮羹」など、多種多様な48種類の羹があったと言われ、「羊羹」もその一つです。当時の羊羹は羊肉の入った汁でしたが、肉食文化がなかった日本では羊肉に見立てて麦や小豆の粉で作られていました。それが汁物から独立し「羊羹」として知られるようになりました。元々は「蒸羊羹」でしたが、寒天の発見を機に、寛政年間(1800年前後)には「煉羊羹」へと進化。茶の湯と共に振舞われた菓子には「打栗」「煎餅」「栗の粉餅」などがあり、これらが和菓子の文化の進展を促しました。