災害への備えとして欠かせない乾パン。その硬質な食感とシンプルな味わいは、私たちに安心感を与えてくれます。しかし、乾パンが単なる保存食としてだけでなく、人々の命を繋いできた歴史的背景を持つことをご存知でしょうか。この記事では、乾パンがどのように誕生し、災害や戦時下でどのような役割を果たしてきたのかを紐解きます。非常食としてのイメージが強い乾パンですが、その歴史を辿ることで、私たちが生き抜くための糧としての新たな一面が見えてくるはずです。

はじめに
乾パンは、いざという時のために備えておくべき食品として広く知られています。小さく四角い形をしており、硬くてよく噛む必要があり、長期保存ができるのが特徴です。単に保存ができるだけでなく、過去の戦争や災害において、多くの人々の命を支えてきたという重要な役割も担っています。近年、日本では震度5強以上の地震や、これまでにないような大雨が頻繁に起こっており、災害は決して他人事ではありません。だからこそ、非常用持ち出し袋を準備することは、自分自身や家族の安全を守るために非常に大切です。そして、非常用持ち出し袋に入れるべき食品として、昔から乾パンはその役割を果たしてきました。この記事では、誰もが知っている乾パンについて、あまり知られていない歴史やどのように進化してきたのか、そして非常食としての重要性について詳しく解説します。この記事では、乾パン、堅パンなど、さまざまな呼ばれ方をされているものを「乾パン」として統一して説明し、その魅力を深く掘り下げていきます。乾パンがどのようにして生まれ、どのように変化してきたのか、そして現代においてどのような存在なのかを詳しく見ていきましょう。
乾パンとは:長期保存が可能な焼き菓子
乾パンとは、長期間保存できるように硬く焼き上げた食品で、主に非常食や軍隊の食料として使われます。その歴史は古く、日本では江戸時代の終わり頃から、幕府や各地の藩が軍用の食料として研究を進めてきました。特に戦争中は、保存食として多くの人々に食べられていました。三立製菓が1937年から「カンパン」という名前で商品を販売したことがきっかけで、現在では「カンパン」という言葉が、このタイプの保存食を指す言葉として広く使われるようになりました。今の乾パンは、昔に比べて味が良くなり、食感も改良されており、非常食としてだけでなく、普段から気軽に食べられるお菓子として親しまれています。小さくて持ち運びやすく、栄養価も高く、水がなくても食べられるため、災害時はもちろん、登山やキャンプなどのアウトドア活動にも適しています。
乾パンの起源:ヨーロッパから日本へ、そして江戸時代の研究
乾パンの歴史は非常に古く、そのルーツは約2000年前のヨーロッパにまでさかのぼることができます。この起源が、後の乾パンの発展に大きく影響を与えました。
古代ローマ時代の兵士の食料がルーツ
古代ローマ時代には、兵士たちが持ち歩く食料として、硬くて長期保存ができるパンが支給されていました。これが乾パンの原型と考えられています。長距離の移動や遠征をする兵士にとって、エネルギー源となるパンは必要不可欠でした。当時の兵士たちは、現代の乾パンのように味がついたものではなく、塩味のついていないシンプルな硬いパンを携行し、厳しい戦場で空腹を満たしていたと言われています。この古代の知恵が、後の乾パンへとつながっていきました。
日本におけるカンパンの始まり:江戸時代の兵糧開発
カンパンの歴史は、江戸時代末期に端を発します。度重なる戦乱を経て、江戸幕府や諸藩は、再度の戦に備え、長期保存が可能な食糧の確保を急務としていました。当時の主食であった米は、湿気や腐敗に弱く、長期保存には適していませんでした。さらに、戦地での調理は困難を極め、煙は敵に位置を知られるリスクを伴い、炊飯に時間をかける余裕もありませんでした。このような状況下で、兵士のための食料を確保するため、乾燥食品や加工食品の開発が不可欠となりました。そのため、各藩は保存食の研究に力を入れ、万が一の事態に備えていたのです。
伊豆韮山代官・江川英龍の貢献と西洋技術への関心
日本におけるカンパンの具体的な起源は、1842年に遡ります。反射炉で知られる伊豆韮山の代官、江川英龍が、非常時に備え、保存性と携帯性に優れた軍用パンの製造に着手しました。英龍は、西洋の軍事技術に関心を寄せ、兵糧としてのパンの可能性に着目しました。彼は小麦粉を用いて、保存性の高いパンの試作を行いましたが、当時の日本の技術や資源では、大規模な製造や軍事利用には課題が多く残されていました。しかし、彼のパン文化への貢献は大きく、後のカンパン開発の基礎となったと評価されています。江川英龍の研究は、単なる食料開発にとどまらず、当時の日本が外国文化の導入に積極的であったことを示す好例と言えるでしょう。
各藩の独自兵糧開発:兵糧丸、備急餅、燕餅
江川英龍の研究と並行して、他の藩でも軍用パンや保存食の開発が進められていました。例えば、水戸藩では「兵糧丸」、長州藩では「備急餅」、薩摩藩では「燕餅」と呼ばれる独自の軍用保存食が作られていました。これらの兵糧は、現代のカンパンとは形状や材料が異なりますが、「長期保存」と「携帯性」という共通の目的を持って開発された点で、カンパンのルーツと言えるでしょう。兵糧丸(ひょうろうがん)とは、日本の戦国時代から江戸時代にかけて使われていた丸薬状の携帯保存食です。『万川集海』など忍術書に素材や製法が記載されており、異称や材料・製法は家や地域によって異なります。主な材料には晒米、蕎麦粉、はったい粉、雑穀粉、きな粉、葛粉、山芋粉、脂質・タンパク質が豊富な穀物や豆類、鰹節やにぼし粉、松の甘皮粉末、肉桂、薄荷、生姜、山椒、擂りゴマ・ゴマ油などが含まれます。これらを混合し、こねて小さい球状にまとめます。 (出典: 『万川集海』等の忍術書・『老談集』、および学術的整理(Wikipedia兵糧丸項目), URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E7%B3%A7%E4%B8%B8, 2024-06-01)」「備急餅」は詳しい製法は不明ですが、長州藩で保存性を重視した携帯食だったと考えられています。「燕餅」は直径4〜5cmで、中央に穴が開いたドーナツ状の保存食でした。この穴に紐を通して持ち運びやすくしたり、表面積を増やして乾燥を促進するなど、工夫が凝らされていました。このように、カンパンは単なる保存食としてだけでなく、各時代の軍事戦略や技術革新を反映した、歴史的な食品なのです。
軍用食としてのカンパンの発展:明治・大正期における進化
江戸時代から軍用保存食として利用されてきたカンパンは、明治時代に入っても引き続き軍用品として製造され続けました。この時期、日本は近代国家として急速に発展し、軍隊の制度も大きく変化する中で、兵士の食事、すなわち「兵食」の在り方も見直されることになりました。特に、日露戦争の勃発は大きな転換点となり、カンパンが日本の軍隊において不可欠な保存食としての地位を確立する決定的な契機となりました。

近代国家における兵食見直しと日露戦争がもたらした転機
明治時代、日本は西洋の文化や技術を積極的に取り入れ、「近代国家」へと急速に発展しました。それに伴い、軍隊の体制も大きく変化し、兵士の食事、すなわち「兵食」のあり方も見直されることになったのです。特に、1904年に勃発した日露戦争は大きな転換点となりました。ロシア帝国との戦いは、現在の中国東北部(満州)や朝鮮半島北部といった遠隔地が戦場となり、長期にわたる戦いを強いられました。このような状況下で、兵士たちへ食料を安定的に供給する方法(兵站)は、極めて重要な課題でした。当時の日本軍では、現地で米を炊いて食べるのが基本でしたが、戦場での火の使用は敵に発見されるリスクを伴い、炊飯に時間をかける余裕もありませんでした。さらに、悪天候や道路状況の悪化により輸送が困難になり、前線への食料供給が滞ることも頻繁に発生しました。そのため、「すぐに食べられ、持ち運びやすく、長期保存が可能な食料」が不可欠となったのです。
「重焼麺麭」の誕生と初期の課題
明治時代、大日本帝国陸軍は、西洋の軍用ビスケットを参考に、日本人の嗜好に合わせた携帯食糧を開発しました。これが「重焼麺麭(じゅうしょうめんぽう)」と呼ばれるものです。「重焼麺麭」という名称は、「何度も焼いたビスケット」という意味合いを持っています。しかし、初期のカンパンにはいくつかの問題点がありました。記録によると、当時のカンパンは大きく、非常に硬かったため、日本人の味覚に合わず、継続的に食べるには適していませんでした。これらの課題を克服するために様々な改良案が検討されましたが、日露戦争ではこの「重焼麺麭」が使用され続けました。
欧米から学んだ保存食の概念と必要性
当時、ドイツ、フランス、アメリカなどの欧米諸国では、ビスケットや缶詰といった保存食が軍隊で広く利用されていました。これらの国の兵士たちは、火を使わずにすぐに食べられる食料を携行して戦地に赴いていました。カンパンは水分含有量が少ないため、腐敗しにくく、長期間の保存が可能です。日本軍も海外の事例に倣い、「カンパンのような保存食を自国でも製造する必要がある」と認識しました。これは、食料補給が困難な状況下でも兵士の活動範囲を広げ、戦闘能力を維持するために不可欠な考え方でした。
銀座木村家・木村儀四郎による本格的な軍用乾パンの開発
この時代、軍用カンパンの開発に大きく貢献したのが、銀座の老舗パン屋「木村家總本店」の三代目、木村儀四郎でした。儀四郎は、あんぱんを考案した初代・木村安兵衛の孫であり、製パン技術を受け継ぐ職人として知られていました。初代安兵衛が1875年に山岡鉄舟の進言により天皇にあんぱんを献上したことがきっかけで、木村家の名声は全国に広まりました。その後、儀四郎は製パン技術をさらに発展させ、軍の要請に応じてカンパンの開発に取り組むことになります。政府や軍からの依頼を受けた儀四郎は、「火を使わずに食べられ、長期保存が可能な」カンパンの開発に着手し、自身が設立した会社「東洋製菓」で試作を重ねました。そして、日本で初めて本格的に軍用を想定して製造されたカンパンが誕生したのです。
日露戦争における乾パンの役割:兵站と士気への影響
木村儀四郎が開発した乾パンは、日露戦争において前線に送られ、兵士たちの食事の準備にかかる手間を削減し、空腹を満たすための重要な食糧となりました。この乾パンは、単なる軍用食という枠を超え、後に保存食や防災食、さらには遠足や登山などの携帯食としても広く利用されるようになりました。また、乾パンは戦場での食事のあり方を一変させました。兵士たちは火を使うことなく、即座にエネルギーを補給することができ、たとえ補給路が途絶えても、ある程度の期間は自力で生き延びることが可能になったのです。このことは、兵士たちの士気を維持する上で非常に重要な役割を果たしました。乾パンの登場は、兵士の生存率を高め、長期的な作戦の遂行を可能にする、画期的な進歩だったと言えるでしょう。
日露戦争後の改良と大正期の詳細な規格
日露戦争後、軍は戦いの経験と反省に基づき、乾パンの大規模な改良を官民協力のもとで進めることになりました。使用する小麦の種類から見直し、輸送中の衝撃に耐えることができるよう、頑丈さを追求して改良が重ねられました。そして大正時代に入ると、携帯糧食としての乾パンの内容は、より詳細に、そして体系的に整備されました。その規格は非常に細かく定められており、原料としては小麦粉、米粉、胡麻、砂糖、食塩、馬鈴薯、ホップが指定され、栄養バランスと保存性の両立が目指されました。具体的には、2個で1食とされ、60個を箱に詰めて提供されました。この箱は木製で、内部には湿気から乾パンを守るためのブリキの内張りが施されており、1梱包あたりの総重量は24.75kg、うち正味内容量は13.5kgと定められました。箱のサイズも縦67cm、横38cm、高さ42cmと厳密に規定されており、これにより全国どこでも均一で安定した品質の乾パンが供給される体制が確立されました。この詳細な規格化は、後の時代の乾パンの品質基準を確立する上で、非常に重要な意味を持ちました。
食べやすさの向上:金平糖・氷砂糖の導入
現在の乾パンによく見られる、金平糖や氷砂糖が一緒に詰められている形式は、比較的新しい改良の一つです。この工夫は、乾パンが抱える根本的な課題を解決するために考え出されました。その導入は、単に味を良くするだけでなく、非常時における人間の生理的・心理的な側面まで考慮した、優れた工夫の結晶と言えるでしょう。

パサつきの解消:金平糖同封の始まり
この工夫が始まったのは1931年のことで、当時の乾パンが抱えていた「パサつき」という問題を解決するための、画期的な試みでした。乾パンは、その特性上、水分量が少なく非常に乾燥しているため、口の中の唾液を奪いやすく、特に乾燥した環境下や非常時には食べにくいと感じる人が少なくありませんでした。そこで考え出されたのが、金平糖(または氷砂糖)を同封するというアイデアです。金平糖は口の中でゆっくりと溶けることで、唾液の分泌を効果的に促します。これにより、パサパサとした乾パンが格段に食べやすくなるだけでなく、わずかながら糖分を補給し、精神的な安心感を与える効果も期待されました。また、金平糖自体も長期保存が可能であり、乾パンの保存性と相性が良いという利点もありました。この小さな工夫一つで、乾パンは非常食としての実用性を大きく向上させ、より多くの人々にとって受け入れやすい保存食へと進化を遂げたのです。
現代のカンパン:昭和から現代への普及と多角的な役割
カンパンは、長い歴史の中で、当初の軍事用糧食としての役割から、一般家庭における備蓄食、そして現代においては防災食や携帯食へと、その価値と用途を拡大してきました。特に昭和時代から現代に至るまでの発展は、日本の社会状況の変化と深く結びついています。
昭和時代:一般家庭への普及と「生命維持食」としての重要性
昭和時代に入ると、日本は二度の大きな戦禍(第一次世界大戦、そして第二次世界大戦)を経験しました。特に昭和の中頃から後半にかけては、戦の影響が日本社会全体に深刻な影を落としました。戦時中は農産物の生産が減少し、海外からの輸入も滞るなど、深刻な食糧不足に陥る状況が生じました。カンパンは、小麦粉を練って焼き上げ、水分を徹底的に除去してあるため、長期保存が可能であり、数ヶ月にわたって品質を保つことができます。また、加熱せずにそのまま食べられるため、調理の手間も省けます。このような特性から、カンパンは軍隊のみならず、一般家庭でも重要な食料として広く利用されるようになりました。1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本はより一層厳しい食糧事情に直面し、農地は戦場と化し、輸送手段も不足しました。多くの人々が食料に困窮する非常時において、カンパンは以下のような理由から非常に重宝されました。第一に、長期保存が可能であり、食料の入手が困難な状況下での生命維持に不可欠な食品でした。第二に、コンパクトで持ち運びやすく、避難時や物資の輸送が困難な場所でも容易に運搬できました。第三に、高い栄養価を有し、少量で効率的にエネルギーを補給できる貴重な食料でした。そして、調理の必要がなくそのまま食べられるという簡便さは、緊急時には何よりも重要な利点でした。この時代のカンパンは、現代のものほど洗練された味ではありませんでした。非常に硬く、味も素朴なものでしたが、「生命を繋ぐ食料」として確固たる価値を持っていました。学校給食にも用いられることがあり、子供たちにとっても貴重な栄養源となっていました。
三立製菓「カンパン」の誕生と全国への普及
この時代に登場し、カンパンの存在を日本全国に知らしめたのが、1921年(大正10年)に静岡県浜松市で創業した「三立製菓(さんりつせいか)」という企業です。創業当初はビスケットやドロップなどを製造していましたが、昭和12年(1937年)からカンパンの製造に本格的に乗り出しました。そして同社が開発・販売したカンパンは、商品名を「カンパン」と命名して販売されました。この「カンパン」という名称が広く浸透し、次第に「乾パン」そのものの代名詞として認識されるようになりました。三立製菓のカンパンは、その品質の高さと豊富な生産量から、軍隊や官公庁が採用する公式な保存食となり、日本全国にその名が広まりました。
戦後の進化:おやつ・携帯食としての側面
戦後、日本は平和を取り戻し、食料事情も徐々に改善されました。それに伴い、カンパンは「非常食」という側面に加え、「おやつ」や「携帯食」としての価値を高めていきました。技術革新により、味や食感が改良され、「保存食でありながら美味しい」という評価を受けるようになります。これは、製造技術の進歩だけでなく、消費者のニーズに応える形で製品開発が進められた結果であり、カンパンが多様な場面で受け入れられる素地を築きました。
三立製菓「源氏パイ」と「缶入りカンパン」の躍進
カンパン製造で確固たる地位を築いた三立製菓は、その勢いを駆って新たな菓子開発にも注力しました。1969年(昭和44年)には、ハート形が愛らしいパイ菓子「源氏パイ」を発売。芳醇なバターの香りが特徴で、現在も多くのスーパーやコンビニエンスストアで目にすることができる定番商品として親しまれています。そして1972年(昭和47年)には、「缶入りカンパン」が誕生しました。これは、カンパンを湿気や虫から守るために密閉された缶に収め、さらに小さな「氷砂糖」を同封した画期的な商品でした。氷砂糖は、甘味を提供すると同時にエネルギーを補給し、水分の確保が難しい状況下でも唾液の分泌を促し、カンパンをより食べやすくするための工夫です。この缶入りカンパンは、防災用の非常食として広く支持され、家庭や職場、学校などで備蓄されるようになりました。
自衛隊における採用:特殊環境に対応した大小カンパン
カンパンは、その優れた保存性、栄養価、そして携帯性の高さから、現代においても日本の防衛を担う自衛隊において、重要な携行食として重用されています。自衛隊で用いられるカンパンには、主に「大型」と「小型」の二種類が存在します。大型カンパンは、主に海上自衛隊で採用されており、個別に配布されるだけでなく、チューブ入りの水飴と共に提供されることがあります。これは、海上での活動という特殊な環境下において、カロリー補給と同時に水分摂取を促し、喉の渇きを和らげることを目的としています。一方、小型カンパンは、陸上自衛隊と航空自衛隊で使用されています。特に陸上自衛隊のカンパンには、食べやすさを考慮して、金平糖が15グラム同梱されています。これは、陸上での活動において水分補給が困難な状況や、精神的な緊張状態にある中で、唾液の分泌を促進し、口内の乾燥を軽減することで、兵士が円滑に栄養を摂取できるよう配慮したものです。このように、自衛隊のカンパンは、各部隊の活動特性や環境に合わせて細部にわたり調整されており、現代の軍事作戦においてもその重要性は変わることがありません。
防災食としての再評価と現代の備蓄への意識
近年、日本では地震や台風をはじめとする自然災害が頻発しています。それに伴い、各家庭で非常時に備えて食料や飲料水を準備する「防災意識」が高まっています。カンパンは、以下に示す理由から、防災食として改めてその価値が見直されています。第一に、非常に長期の保存が可能であり、万が一の事態における食料確保に最適です。第二に、製造過程で水分を極限まで除去しているため、コンパクトながら高いエネルギー効率を有しています。第三に、調理の必要がなく、そのまま食べることができるため、ライフラインが途絶えた状況下でも容易に栄養を摂取できます。第四に、栄養バランスにも配慮されており、必要最低限の栄養素を摂取できる点も重要です。そして、心理的な安心感をもたらします。これらの特性は、非常時における私たちの生命と健康を守る上で必要不可欠な要素となります。
多様化するカンパン:味の広がりと用途の拡大
近年では、ゴマ入りやチョコチップ入りなど、様々なフレーバーのカンパンが登場し、その用途もアウトドアやスポーツ時の携帯食として広がりを見せています。私たち一般市民にとっても、カンパンは災害時に非常に頼りになる食料です。今後起こりうる大規模地震や、予測不可能な自然災害に備えて、各家庭の非常用持ち出し袋にカンパンが適切に用意されているか、そして最も重要な賞味期限が切れていないかを定期的に確認することは、自身と家族の安全を守る上で欠かせない行動と言えるでしょう。カンパンの歴史を知ることは、その価値と役割を再認識することに繋がるのです。
まとめ
カンパンは、およそ2000年前の古代ローマ時代に兵士の食料として登場して以来、日本の江戸時代の軍用パン、明治・大正時代の改良を経て、現代の自衛隊の糧食に至るまで、長きにわたり非常食として進化を続けてきました。その道のりでは、「重焼麺麭」という初期の課題を克服し、官民が協力して規格を詳細に定め、1931年には金平糖を同封することで食べやすさを向上させるなど、各時代における工夫と知恵が積み重ねられてきました。江戸時代における兵糧の研究に端を発し、明治時代には軍隊の保存食として発展、昭和時代には三立製菓の「カンパン」が登場し、国民の食を支える存在となり、現代では防災食・携行食として新たな価値を見出されています。木村儀四郎や三立製菓をはじめとする人々の努力により、カンパンは長期保存が可能で、安心して備蓄できる日本独自の食文化として定着しました。現在の自衛隊では、部隊の特性に応じて大型・小型のカンパンが採用されており、その実用性と信頼性は揺るぎないものです。私たち一般市民にとっても、カンパンは災害時に生命を繋ぐ重要な保存食です。この記事を通して、カンパンの奥深い歴史と進化の過程を知ることで、非常時への備えに対する意識をさらに高めていただければ幸いです。私たちが手に取る一缶には、時代を超えた知恵と工夫、そして人々の生活を支えてきた歴史が凝縮されています。来るべき災害に備え、今一度、ご自身の非常用持ち出し袋の中身とカンパンの賞味期限を確認し、万全の準備を整えましょう。
カンパンはいつ頃から存在していますか?
カンパンのルーツは非常に古く、およそ2000年前の古代ローマ時代に、すでに兵士の携帯食として食されていた記録が残っています。日本国内においては、1842年に伊豆韮山(現在の静岡県伊豆の国市)の代官であった江川太郎左衛門英龍が、軍事用の携帯食としてパンを製造したのが始まりとされています。
なぜカンパンには金平糖が入っているのですか?
カンパンに金平糖が同梱されるようになったのは、1931年のことです。カンパンは水分含有量が少なく乾燥しているため、摂取すると口の中の水分が失われやすく、食感がパサつくと感じられることがあります。金平糖は口の中でゆっくりと溶けることで唾液の分泌を促進し、カンパンをより食べやすくするための工夫です。
明治時代のカンパンはどのようなものだったのですか?
明治時代の大日本帝国陸軍が、欧米の軍用ビスケットを参考に改良して製造した携帯口糧は「重焼麺麭(じゅうしょうめんぽう)」と呼ばれていました。当時のカンパンは、サイズが大きく非常に硬いため、日本人の味覚には馴染まず、継続的に食べるのには適していなかったとされています。しかし、この時代に銀座木村家の三代目である木村儀四郎によって本格的な軍用乾パンが開発され、日露戦争で兵士の食料として活用されました。
自衛隊における乾パンの種類
自衛隊では現在も乾パンが食料として用いられており、大・小2種類のサイズが存在します。海上自衛隊では大型の乾パンが採用され、携帯に便利なチューブ入りの水飴が一緒に支給されます。一方、陸上自衛隊と航空自衛隊では小型の乾パンが採用されており、陸上自衛隊の乾パンには甘い金平糖が15グラム添えられています。各部隊の活動内容や環境を考慮し、細部にわたる調整が加えられているのが特徴です。
非常食としての乾パン選びのポイント
非常食として乾パンを選ぶ際、あるいは備蓄する上で最も重要なのは、賞味期限をしっかりと確認することです。また、長期保存に適した容器に包装されているか、乾パンと一緒に水分補給を助ける金平糖や氷砂糖などが含まれているかどうかも確認しておくと良いでしょう。近年では、ゴマやチョコレートチップを練り込んだものなど、様々な味が楽しめる乾パンも登場していますので、自分の好みに合わせて選ぶのもおすすめです。定期的な在庫チェックと、古いものから消費するローリングストック法を実践することをおすすめします。
乾パンが軍用食として広まった背景
日本において乾パンが本格的に軍用食として普及する契機となったのは、1904年に勃発した日露戦争でした。この戦いでは、遠隔地での戦闘や物資補給の難しさから、調理せずにすぐに食べられ、かつ長期保存が可能な食料の必要性が痛感されました。そこで、銀座木村屋の三代目、木村儀四郎が開発した軍用乾パンが戦地に送られ、兵士たちの飢えを満たすとともに、兵站維持と士気高揚に大きく貢献しました。
三立製菓の乾パン製造の歴史
三立製菓は1921年(大正10年)に創業されましたが、乾パンの本格的な製造を開始したのは昭和12年(1937年)のことです。同社が製造・販売する「カンパン」という商品名が広く知られるようになり、いつしか乾パンそのものを指す言葉として定着するほどになりました。













