非常食の定番として知られる乾パン。硬くて素朴なイメージからは想像もつかないほど、その歴史は古く、奈良時代にまで遡ります。江戸時代には兵糧として研究され、戦時中には国民の食糧を支えました。特定のメーカーの製品が広く普及し、乾パンの代名詞となっているものもあります。本記事では、乾パンがどのようにして非常食としての役割を担い、国民食へと進化を遂げてきたのか、その知られざる歴史と進化の軌跡を紐解きます。

乾パンとは?歴史と多様な役割
乾パンは、緊急時の備えとして広く知られる、定番の保存食です。万が一の災害に備え、多くの家庭で常備されています。見た目は小さな四角形で硬く、しっかりとした噛み応えが特徴ですが、現代の乾パンはやさしい甘さと口当たりの良い食感が特徴で、種類によっては5年間の長期保存が可能です。乾パンは単なる保存食としてだけでなく、日本の歴史の中で、奈良時代にまで遡る保存食のルーツから、戦争や災害といった極限状態において人々の命を繋いできた重要な役割を担っています。日本では江戸時代後期から幕府や各藩が兵糧として研究を進め、昭和時代には戦時中の保存食として多くの国民に親しまれてきました。現代では災害時の備蓄食品として非常に重要な役割を担う一方で、普段のおやつや携帯食としても気軽に楽しめる食品へと進化し、その用途は多岐にわたります。この記事では、乾パンの起源から進化、そして現代における多様な役割まで、その歴史を深く掘り下げて解説します。
日本における保存食のルーツ【奈良時代から江戸初期】
乾パンの歴史を深く探ると、その起源は日本の古代にまで遡ることができます。特に、日本の保存食文化のルーツとして重要なのが、奈良時代に登場した「乾飯(ほしいい)」です。当時、人々は普段の食事とは別に、調理せずにすぐに食べられる携帯食の必要性を感じていました。その解決策として生まれた乾飯は、蒸した米を乾燥させたもので、お湯をかけるだけで簡単に食べられました。これはまさに、現代のインスタント食品の原型とも言える画期的な保存食でした。乾飯は、旅や戦において、米を炊く手間を省き、食料の携帯を容易にする優れた食品として重宝され、広く利用されました。その後、時代が進むにつれて、この乾飯の概念は様々な形で進化を遂げます。特に、江戸時代後期頃には、米を主原料とするだけでなく、小麦粉などを練って焼いた、現代の乾パンに近い形の保存食も試作されるようになりました。このように、奈良時代の乾飯から続く日本の保存食の知恵と工夫が、後の本格的な乾パン開発へと繋がる重要な基盤を築き上げました。
乾パンの起源【江戸時代の兵糧研究】
乾パンの直接的なルーツ、特に小麦粉を主原料とする堅焼きビスケット状の保存食が本格的に研究され始めたのは、江戸時代の後期です。前述の奈良時代の「乾飯」をルーツとする日本の保存食は、形を変えながら発展を続けましたが、江戸幕府や各藩は、大坂の陣(1614〜1615年)をはじめとする度重なる戦乱を経験する中で、再び大規模な戦が起こる可能性を常に考慮していました。そのため、戦時における兵糧(軍用食糧)の安定供給が国家的な課題となり、保存性に優れた食料の必要性を強く認識するようになりました。当時の兵糧の主食であった米は、湿気や腐敗に弱く、長期間の保存には適していませんでした。また、戦地では火を使った調理が難しい場合が多く、炊事の煙で敵に見つかる危険性や、調理に時間をかける余裕がないという問題もありました。このような背景から、米に代わる、あるいは米を補完する長期保存が可能な食料の研究が各藩で本格的に始まり、現代の乾パンにつながる加工食品の開発が急務となりました。
江川英龍による先駆的な研究
幕府においては、伊豆韮山(現在の静岡県伊豆の国市)の代官であった江川英龍(えがわ ひでたつ)が乾パンの研究を行ったことで知られています。江川英龍は西洋の軍事技術に関心を持ち、その一環として、兵糧としての乾パンの可能性に着目しました。彼は小麦粉を主原料として使用し、保存性の高い乾パンの試作を繰り返しました。しかし、当時の日本の技術や材料事情、製造規模の制約から、彼が目指した乾パンが大規模な軍用として本格的に使用されるまでには至りませんでした。それでも、江川英龍が日本における乾パン文化の基礎を築いた功績は大きく、その研究は後の本格的な乾パン開発への思想的な基盤となったと評価されています。
各藩独自の工夫と多彩な保存食(糒、焼餅、携行餅)
江戸時代には、乾パンに直接つながるもの以外にも、各藩が知恵を絞り、様々な携帯用保存食が生み出されました。例えば、古くは奈良時代にまで遡る「乾飯」の流れを汲む「糒(ほしい)」は、蒸した米を乾燥させたもので、水で戻すだけで食べられる手軽さが重宝されました。これは、現代のインスタント食品にも通じる利便性であり、日本における保存食文化の長きにわたる歴史を物語っています。「焼餅(やきもち)」は、詳しい製法は分かっていませんが、保存性を高めた携帯用の餅菓子と考えられています。また、「携行餅(けいこうもち)」は、直径4~5cmほどのドーナツ型で、中央に穴が開けられた保存食です。この穴は、紐を通して持ち運びやすくするための工夫であり、表面積を増やすことで乾燥を促すなど、機能的な工夫が凝らされていました。これらの兵糧は、現代の乾パンとは形状や材料こそ異なりますが、「長期保存が可能」で「持ち運びやすい」という共通の目的を持っており、乾パン開発の原点として重要な役割を果たしました。
近代国家を支えた軍用食としての乾パン【明治時代】
明治時代に入り、日本は欧米の技術や制度を積極的に導入し、「近代国家」としての道を急速に進みました。軍隊の制度も大きく変わり、兵士の食事、つまり「兵食(へいしょく)」の在り方も根本から見直されることになりました。特に、1904年(明治37年)に始まった日露戦争は、大きな転換点となりました。この大規模な戦争が、乾パンという優れた保存食を日本の軍隊に定着させる決定的なきっかけとなったのです。

日露戦争が兵糧に要求したもの
1904年に勃発した日露戦争は、ロシアという大国と日本の国運をかけた戦いでした。戦場は、現在の中国東北部(旧満州)や朝鮮半島北部など、日本から遠く離れた場所でした。このような遠隔地で長期にわたって戦い続けるためには、兵士に食料を安定的に供給する手段、すなわち「兵站(へいたん)」の確保が不可欠でした。当時の日本軍は、現地で米を炊いて食べる「炊飯(すいはん)」を基本としていましたが、戦場では火を使うことが非常に危険でした。炊事の煙によって敵に位置を知られる危険性があり、また、砲火が飛び交う状況下でゆっくりとご飯を炊いている時間的な余裕もありませんでした。さらに、悪天候や道路状況の悪化により、輸送車両が立ち往生し、食料が前線に届かなくなる事態も頻繁に発生しました。このような厳しい状況下で、「すぐに食べることができ、持ち運びやすく、腐らない食料」を兵士が常に携帯できる必要性が、喫緊の課題として認識されるようになりました。
欧米からの学び:火を使わない兵食の導入
当時、ドイツ、フランス、イギリスなどの欧米列強の軍隊では、すでにハードタック(堅パン)や缶詰といった長期保存が可能な保存食が広く利用されていました。これらの国の兵士は、火を使う必要がなく、すぐに食べられる非常食を携帯して戦場に赴いていました。乾パンは、水分をほとんど含まないため、カビが生えにくく、数ヶ月にわたる長期保存が可能という特性を持っていました。日本軍も、こうした海外の先進的な事例から学び、「乾パンのような優れた保存食を自国でも開発し、導入する必要がある」と強く認識するようになりました。
木村儀四郎と東洋製菓による乾パンの幕開け
この時代を変える出来事において、重要な役割を担ったのが、銀座の老舗パン屋「木村屋總本店」を受け継いだ三代目、木村儀四郎でした。彼は、あんぱんを生み出した木村安兵衛の孫であり、卓越した技術を持つ職人として知られていました。安兵衛が明治天皇にあんぱんを献上したことで、木村屋の名は広く知れ渡っていました。その後、儀四郎はパン製造の技術をさらに向上させ、軍からの要請に応え、乾パンの開発に尽力することになります。政府や軍からの依頼を受けた彼は、「すぐに食べられ、長期保存が可能」という要望に応えるべく、自身の会社「東洋製菓」で試作を繰り返しました。そして、日本で初めて本格的な軍用を目的とした乾パンが誕生しました。この乾パンは、日露戦争の戦地へ送られ、兵士たちの食糧となり、戦況を支える上で欠かせないものとなりました。
日露戦争での乾パンの貢献と普及
木村儀四郎が開発した乾パンは、日露戦争において単なる食料以上の役割を果たしました。この乾パンは、戦場での食事のあり方を大きく変えました。兵士たちは安全にエネルギーを補給でき、食糧の供給が滞っても、ある程度の期間、自力で生き延びることが可能になったのです。これは兵士の精神的な支えとなり、戦闘能力の向上にも繋がりました。日露戦争での成功を経て、乾パンは軍用食だけでなく、保存食や防災食、さらには遠足や登山などの携帯食としても利用され、その用途を広げていきました。
戦時下、国民を支えた乾パン【昭和】
昭和時代、日本は第一次世界大戦(大正時代末期)と第二次世界大戦(太平洋戦争)を経験しました。特に昭和時代中期から後期にかけては、戦争の影響が社会全体に広がり、国民生活に大きな影響を与えました。戦争中、食料生産は減少し、輸入も途絶え、深刻な食糧不足が発生しました。そのような状況下で、乾パンは国民にとって重要な食糧源となりました。小麦粉を焼き、水分を飛ばして作られた乾パンは、長期保存が可能で、そのまま食べられるため、非常時に最適な食品でした。乾パンは、軍隊だけでなく、一般家庭でも重要な食糧として広く利用されました。
三立製菓「カンパン」の誕生と全国への広がり
三立製菓は、当初ビスケットやキャンディなどを製造していましたが、軍からの依頼がきっかけで乾パン製造に乗り出します。依頼を受ける前から技術を磨き、試作を重ねていたため、軍の厳しい基準をクリアし、軍用乾パンの納品を開始しました。そして、昭和12年(1937年)に「カンパン」という商品名で販売を開始しました。「カンパン」という名前は全国的に知られるようになり、やがて乾パンそのものの代名詞として定着しました。三立製菓のカンパンは、品質と安定した生産量から、軍隊や官公庁の保存食として採用され、国家的な食料供給を支える存在となりました。
太平洋戦争下の「命をつなぐ食べ物」としての乾パン
1941年、太平洋戦争が勃発すると、日本は深刻な食糧難に直面しました。広大な農地が戦地となり、食料輸送も困難を極め、多くの人々が食料不足に苦しみました。太平洋戦争下の食糧難において、乾パンは国民にとって非常に重要な存在となりました。
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長期保存が可能であるため、食料が乏しい時期の貴重な備蓄食料として役立ちました。
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調理せずにそのまま食べられる手軽さは、緊急時や調理が難しい状況で重宝されました。
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小麦粉を主原料としているため、最低限のエネルギーと栄養を人々に供給し、命を支えました。
おやつ、そして進化する防災食としての乾パン【現代】
第二次世界大戦後、日本は平和を取り戻し、高度経済成長を経て、食料事情も改善され豊かな時代へと変化しました。それに伴い、乾パンの役割も「非常食」という側面だけでなく、「おやつ」や「携帯食」としての価値を広げていきました。技術の進歩と消費者のニーズの変化に対応するため、各メーカーは乾パンの品質向上に注力しました。具体的には、食感の改善や、より美味しくなるような味付けの工夫が行われ、乾パンは「保存食でありながら美味しい」という新たな評価を得るようになりました。様々なフレーバーや形状の乾パンが登場し、日常の食卓やレジャーシーンにも登場する身近な食品へと変化を遂げました。

三立製菓の挑戦:源氏パイと缶入りカンパン
戦時中から乾パン製造で実績を積んだ三立製菓は、平和な時代においても新しいお菓子の開発に意欲的に取り組みました。同社の「カンパン」は、発売以来、着実に売り上げを伸ばしていましたが、爆発的なヒット商品というわけではありませんでした。三立製菓にとって最初の大きなヒット商品は、1965年に発売された「源氏パイ」でした。当時はまだ洋風のパイになじみのない時代でしたが、日本人に親しみを持ってもらうために和風の名前が付けられ、ハート型の可愛らしいお菓子として国民的な人気を博しました。「パイを初めて食べたのがこの商品だった」という人も少なくなく、バターの風味が豊かでサクサクとした食感が特徴のおやつとして、現在でもスーパーやコンビニエンスストアで定番商品として広く親しまれています。さらに、その前年の1964年には、今も人気の高い「チョコバット」が発売されており、こちらも時間をかけて子供たちの間で徐々に知られるようになり、定番お菓子として定着したロングセラー商品となっています。そして1972年には、画期的な商品である「缶入りカンパン」を発売しました。この商品は、乾パンを湿気や虫から守るために密閉された缶に入れて販売され、長期保存性を飛躍的に向上させました。缶の中には小さな「氷砂糖」も一緒に入っており、乾パンの素朴な味わいに甘さを加え、同時に手軽にエネルギー補給ができるように工夫されていました。この缶入りカンパンは、防災用の非常食として非常に人気を集め、多くの家庭や職場、学校に備蓄されるようになりました。
現代のカンパンの「揺るぎない味」と多様な楽しみ方
現代の乾パンは、単なる非常食という枠を超え、日常的に親しまれる食品としての地位を確立しています。時代のニーズに合わせて味は変化し、多くの食品メーカーが濃厚な味付けへとシフトしていく中で、カンパンは「基本的な配合は変えずに、時代に合わせて食感や風味を改良する」という方針を貫いています。この「揺るぎない味」を守り続けることが、世代を超えて愛され続けるロングセラーの秘訣であり、上の世代には変わらない懐かしい味として、若い世代には優しい味わいとして受け入れられています。「味が単調だ」と感じる人もいるかもしれませんが、実際に食べてみると、ほのかな甘みと香ばしいゴマの風味が絶妙に調和しており、子供からお年寄りまで幅広い世代が楽しめる優しい味わいが特徴です。さらに、カンパンはアレンジの幅が広く、様々な食材と組み合わせて楽しむことができます。例えば、ケチャップやマヨネーズを付けて食べたり、サバの缶詰と一緒に食べたり、レトルトカレーに合わせたりと、その優しい味わいゆえにどんな食材にも合わせやすいのが魅力です。例えば、お粥に混ぜることで食感や風味を変えるといった食べ方もあります。このように、乾パンは「もしも」の時だけでなく、「いつも」の時にも私たちの食生活を豊かにする存在として愛され続けています。
「備蓄食」としての再注目と進化する乾パン
近年、日本各地で地震や豪雨などの自然災害が頻発し、その規模も拡大しています。こうした状況を受け、各家庭において非常時のための食料や飲料水を準備する「防災への意識」が著しく向上しています。そのような背景の中、乾パンは以下の点で、改めて防災食としての価値が見直されています。まず、非常に長い保存期間により、数年単位での備蓄が可能です。また、調理せずにそのまま食べられる手軽さは、インフラがストップした緊急時に非常に役立ちます。さらに、少量で効率的にエネルギーを摂取できるため、災害時の体力維持に貢献します。加えて、従来のシンプルな味だけでなく、ゴマやチョコチップ入り、乳酸菌配合など、フレーバーの種類が大幅に増えました。これにより、非常食としての機能に加え、普段のおやつや、アウトドア、スポーツ時の栄養補給など、幅広い用途で利用されています。
まとめ:乾パンが物語る日本の歴史と未来
乾パンは、奈良時代の「乾飯」をルーツとし、江戸時代の兵糧研究を経て、明治時代には軍隊の保存食として発展し、昭和時代には戦時下の国民の食糧を支えました。そして現代では、防災食としての再評価に加え、日常的なおやつや携帯食として新たな価値を持つ食品へと変化を遂げています。奈良時代の先人の知恵、江川英龍による先駆的な研究、木村儀四郎による軍用乾パンの開発、そして三立製菓をはじめとする企業の絶え間ない努力と品質改良によって、乾パンは長期保存が可能で、安心して備蓄できる日本独自の食文化として定着しました。私たちが手にする乾パンの一つの缶には、時代を超えて受け継がれてきた知恵と工夫、そして人々の生活を支え、困難な時代を乗り越えてきた歴史が凝縮されています。基本的な味を維持しながらも、食感や風味の改良、そして多様な楽しみ方を提案し続ける乾パンは、これからも私たちの生活の安全と安心を支える重要な食品であり続けるでしょう。
乾パンはなぜ長期保存ができるのですか?
乾パンが長期間保存できるのは、製造過程で水分を極限まで減らしているため、細菌やカビが増殖しにくい状態になっているからです。また、主原料が小麦粉であり、油分も比較的少ない焼き菓子であるため、酸化による品質劣化が遅いという特徴があります。缶入りの乾パンは、空気や湿気を遮断する密封容器に入れることで、さらに保存期間を延ばしています。これらの要素が組み合わさることで、数年間の長期保存が可能になっています。
乾パンはいつ頃から日本に存在するのですか?
乾パンの起源は、そのまま食べられる「乾飯(ほしいい)」として奈良時代にまで遡ります。その後、江戸時代末期には伊豆韮山の代官であった江川英龍が、小麦粉を主な材料とする兵糧としての乾パンの研究を行いました。本格的な軍用乾パンとして広まったのは、明治時代の日露戦争の際に、銀座のパン屋「木村屋總本店」の三代目である木村儀四郎が開発したものが最初です。三立製菓が「カンパン」という商品名で一般向けに販売を始めたのは1937年(昭和12年)のことです。
昔ながらの乾パンと現在の乾パンでは、味に違いがあるのでしょうか?
はい、昔と今の乾パンでは、味や食感に大きな違いが見られます。戦時中の乾パンは、何よりも「生命維持のための食料」としての役割が重要視されていたため、非常に硬く、味付けも極めてシンプルでした。しかし、戦後から現代にかけて、技術革新や消費者のニーズの変化に伴い、より美味しく、食べやすくなるように改良が重ねられてきました。三立製菓の望月氏によれば、基本的な材料の配合は変わらないものの、時代に合わせて食感や風味が調整されており、年配の方々には変わらぬ美味しさを、若い世代には親しみやすい味わいとして感じてもらえるよう工夫されているとのことです。例えば、三立製菓の缶入りカンパンには氷砂糖が添付されており、甘さや風味に工夫が凝らされています。また、ゴマ風味やチョコレートチップ入りなど、様々な味のバリエーションも登場しています。
乾パンの主な栄養成分は何でしょうか?
乾パンの主な栄養成分は、炭水化物(糖質)です。小麦粉を主原料としているため、人が活動する上で不可欠なエネルギー源を効率的に摂取できます。また、製造メーカーによっては、カルシウムやビタミンなどを強化している製品も見られます。非常時には、乾パンに加え、水分補給や他の栄養補助食品を併用することで、栄養バランスの取れた食事が推奨されます。
乾パンをより美味しく食べるには、どのような工夫ができますか?
乾パンはそのまま食べても良いですが、工夫次第でさらに美味しく食べることができます。例えば、牛乳やスープに浸して柔らかくしたり、ジャムやバター、チョコレートスプレッドなどを塗って食べるのもおすすめです。また、缶入りカンパンに付属している氷砂糖と一緒に食べることで、甘味が加わり、エネルギー補給にも役立ちます。さらに、ケチャップやマヨネーズをディップとして添えたり、サバの缶詰と一緒に食べたり、レトルトカレーに合わせたりと、乾パンの素朴な味わいは様々な食材と相性が良いのが特徴です。意外な食べ方としては、レトルトのお粥に混ぜると、まろやかな甘さが加わり、とろみも増して、普段とは違う味わいを楽しむことができます。
三立製菓にとって、カンパンは最初のヒット商品だったのでしょうか?
いいえ、三立製菓にとって「カンパン」は長年にわたるロングセラー商品ではありましたが、爆発的なヒット商品というわけではありませんでした。同社が最初に大きな成功を収めたのは、1965年(昭和40年)に発売された「源氏パイ」です。その前年の1964年(昭和39年)に発売された「チョコバット」も、時間をかけて子供たちの間で人気が広がり、定番のお菓子としての地位を確立しています。
現代の乾パンは、非常食以外にどのような場面で利用されていますか?
現代において、乾パンは防災備蓄食としての役割は揺るぎないものですが、普段のおやつとしての人気も高まっています。ある製菓会社の担当者は「普段からおやつとして購入されるお客様が多数派です」と語っています。その理由は、優しい甘さと香ばしいゴマの風味が、子供から年配の方まで幅広い世代に好まれているためです。手軽に持ち運びできる食品として、また、ハイキングやスポーツをする際のエネルギー源としても重宝されています。













