幕末から明治維新への移行期、日本は西洋文化を急速に取り入れ始めました。その新風を受けて、日本で初めて誕生したのが「アイスクリーム」、そして名を「あいすくりん」として広まりました。1870年代、横浜の外国人居留地で誕生したこの新しいお菓子は、当時の人々を驚かせ、心を掴みました。日本人初のアイスクリーム店が織りなしたこの物語には、国境を越えたスイーツが辿った道のりと、その背景にある文化交流の深さが描かれています。
「アイスクリーム」の発祥
アイスクリームが日本に初めて紹介されたのは、江戸時代の終わり頃です。幕府の使節団がアメリカを訪れた際、その美味しさに驚いたのがきっかけとなりました。1869年には、横浜で日本初のアイスクリームが製造され、文明開化の象徴として日本でのアイスクリームの物語がスタートしたのです。

アメリカ使節団とアイスクリーム
日本で初めてアイスクリームを口にしたのは、横浜開港の翌年、万延元年に渡米した徳川幕府の使節団だったとされています。
この時、新見豊前守を正使とする77名の使節団が、迎船ポーハタン号に乗り、随伴船の咸臨丸には勝海舟や福沢諭吉らが乗船しました。彼らはサンフランシスコで使節団から別れ、帰国しています。正使一行はその後、パナマ経由でワシントンに向かい、大統領ブキャナンと批准書を交換しました。
使節団がフィラデルフィア号に上陸した際には、アイスクリームでもてなされました。この体験については、従者の柳川当清が「柳川日記」に記しています。「珍しいものがある。氷を様々に染め、形を作って出される。味は非常に甘く、口に入れるとすぐに溶け、実においしい。これをアイスクリンという」と記述されています。この記録から、彼らが見たこともない美味な菓子に驚嘆した様子が伝わります。
万延元年の渡米使節団は、日本人として初めてアイスクリームを味わったとされ、その晩餐で供されたアイスクリームの美味しさに驚いたと伝えられています。
横浜馬車道で「あいすくりん」が誕生
勝海舟に私淑し、咸臨丸による渡米を成し遂げた町田房蔵は、赤坂氷川町に住居を構えたと伝えられています。明治2年、横浜の馬車道通りにて、日本で初めてアイスクリームの製造販売を手掛けたことで知られています。使用した素材は氷と塩とのことで、これが「あいすくりん」の始まりとなりました。
房蔵は米国を二度訪れ、アイスクリームだけでなく、マッチや石鹸、造船用鋲の製造にも関与しました。その裏には、出島松造という人物が房蔵にアイスクリームの製法を教えたという説もあります。この「あいすくりん」は牛乳に卵と砂糖を加えたものだったと考えられます。
鹿鳴館とアイスクリームの歴史
“日本が欧米の先進国と肩を並べる国である”とアピールするために、明治16年(1883年)、鹿鳴館は外国の要人をもてなすための官設社交クラブとして建設されました。
館内では毎晩、欧米スタイルのパーティーや舞踏会、バザーが開催され、多くの外国人が招かれていました。明治19年(1886年)11月には、フランスの艦長ピエール・ロティも日本を訪れ、鹿鳴館のレセプションに出席しました。彼はその体験を著書「秋の日本風物」の中で触れ、「舞踏会ではアイスクリームが用意されていた」と記しています。その当時、アイスクリームは外国人へのもてなしには欠かせない高級デザートとして重宝されていたのです。
晩餐会で提供された鹿鳴館のメニュー。そこではフルコースのフランス料理が提供され、デザートにはアイスクリームや洋菓子が含まれていました。
レストランで楽しむアイスクリーム
明治8年(1875年)、東京・麹町にある村上開新堂がアイスクリームの販売を開始し、風月堂や函館館もそのメニューに加わります。明治35年(1902年)には、東京・銀座の資生堂薬局(現在の資生堂)内に、アメリカのドラッグストアを参考にしたソーダファウンテンが設けられ、ここでアイスクリームとアイスクリームソーダの販売が始まりました。
しかし、アイスクリームは25銭と、庶民には簡単には手が届かない贅沢品でした。しかしながら、当時の街中には「一杯一銭」でアイスクリームを販売している光景が「東京年中行事」に描かれています。