和菓子の深淵:伝統文化と現代への架け橋

和菓子は、季節の移ろいと共に日本の美意識を映し出す芸術品であり、数百年にわたり人々に愛され続けてきました。伝統的な職人技に裏打ちされたその繊細で優雅な形と色合い、そして素材本来の風味を最大限に引き出す製法は、まさに文化の結晶と言えるでしょう。現代においては、新たな技術や感性が加わり、和菓子は日本国内外でさらなる進化を遂げています。本記事では、そんな和菓子が持つ奥深さと、時代を超えて受け継がれるその魅力に迫ります。

もち米のお菓子、おはぎ

粒餡に見られる小豆の皮のパターンが小さな萩の花に似ているため、昔は「萩の餅」や「萩の花」と称されていたものが、「おはぎ」と呼ばれるようになったのは中世の宮中において女官たちが使った言葉に由来していると言われています。また、江戸時代には「隣知らず」という名前でも知られていました。これは、餅を伝統的な臼でつかずに作る方法から、‘ぺったんぺったん’という音がしないため、隣の人に気づかれることなく完成するからです。

桜の風味豊かな餅菓子

桜の葉で餅を包むという革新的なアイディアは、江戸時代に向島の長命寺の門番だった新六によって考案されました。春になると落ち葉の掃除に手を焼いていた新六は、これを有効活用できないかと模索しました。そして、塩漬けの桜の葉で餅を巻いて販売したところ、大ヒットしました。桜餅には異なる生地があることをご存知でしょうか?関東では、小麦粉を水で溶き、薄いクレープ状に焼いた生地で餡を包みます。一方、関西では「道明寺粉」を使います。この粉は、遥か昔、大阪の道明寺で考案された「道明寺糒」という餅米を蒸して乾燥させ、粗挽きにしたものに由来し、主に保存食として使われていました。今では、日本全国で「焼皮の桜餅」と「道明寺粉の桜餅」の両方が楽しめます。

柏の葉で包まれた餅

端午の節句には欠かせない菓子とされる柏餅。古い葉が新芽が出るまで落ちない柏の木にちなんで誕生しました。武家社会では、家が絶えないようにと子孫繁栄を願う象徴として愛されていたのです。柏餅を食べる風習が定着した理由には、この縁起の良さの他にも、餅で餡を包む手の動きが柏手を打つ姿に似ており、めでたい意味が込められているとも言われています。

ちまきの魅力

古代中国から伝わってきたちまきには、興味深い伝説が秘められています。紀元前4世紀の楚の国には、屈原という王族の人物がいました。彼は王の政治に失望し、湖に身を投げて命を絶ったと言われています。屈原の死後、家族や村人たちは毎年5月5日に彼のために湖に供物を捧げていました。しかし、ある日、屈原が村人の夢に現れ、湖に棲む悪龍が供物を奪っていることを告げます。それを避けるために、村人たちは葦の葉で供物を牛の角のように巻き、悪龍に食べられないよう工夫したのです。この話から、ちまきが「角黍」とも書かれていたことが頷けます。日本でも、牛の角の形以外に、ひし形や三角形、俵型といった伝統的なちまきが各地で作られています。貴重な穀物で作られたちまきを神聖なものとして特別な日に食べる習慣が自然発生的に広まり、屈原の伝説や端午の節句と結びつき、5月5日に食べられるようになったのだと考えられます。

和菓子の団子

団子の起源は縄文時代にまでさかのぼり、当時はどんぐりやトチの実を粉にしてアク抜きし、粥や団子の形で食されていたとされています。団子という名称には、中国の菓子「団喜」や餡入り団子「団子(トゥアンズ)」が由来との説や、丸さを意味する「団」と「子」の組み合わせから来ているという見解があります。時代を経て進化した団子は、串に刺さった小さなものから、大きなひとつの団子まで様々で、きび団子、花見団子、よもぎ団子など、多彩な種類が存在します。

羊 羹

羊羹は中国から茶と共に伝わった点心「羹(あつもの)」がルーツと言われています。当初は、文字通り羊の肉を使ったスープ料理でしたが、日本では獣肉を避ける文化があり、羊肉を模した食材を小麦粉や小豆で作って代用していました。このスープの中身を取り出したものが、初期の羊羹の形で、蒸し羊羹として楽しまれていました。1800年頃、江戸時代寛政期に寒天が発見され、煉羊羹が誕生しました。「本煉り」「小倉」「栗」などが代表的ですが、地方ごとにユニークなものも多数存在します。北海道の「昆布羊羹」、佐賀県の「小城羊羹」、愛知県で殿様に献上されたことから名付けられた柔らかい「上り羊羹」などがあります。地域の特産物や歴史を背景にした多様な羊羹を楽しむことができます。購入時には、その背景を聞いてみると新しい発見があるかもしれません。

中心の最たる地点

かつての干菓子は、今でいう最中の外皮の部分だけでしたが、時が経つにつれ、中に餡を入れたり挟んだりするようになりました。最中という名前の由来は、平安時代に編纂された『拾遺和歌集』にある源順の歌、「水の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋の最中なりけり」に基づくと言われています。最中は、外皮の形や様々な餡を組み合わせる工夫から、多くの地域で名物として親しまれています。旅行の際には、その土地の特産最中を楽しむのも面白いでしょう。

和菓子「きんつば」の魅力

きんつばといえば、一般的には四角い形がよく知られていますが、もとは刀の鍔を思わせる丸い形をしていたそうです。現在でも丸型のきんつばを作り続けている老舗があります。きんつばは、大阪で「銀鍔」という名前で売られていた菓子に由来します。当時の大阪の銀鍔は、外側に米粉をまぶして焼いたため、あまり焼き色がつかず銀色に見えたと言います。一方、江戸では小麦粉を水で溶き、まぶして焼いたため、色が少しつき金色に見えたことから‘銀より金が上’とされ、きんつばという名前が付けられました。面白いことに、その後大阪でもきんつばという名前が定着しました。四角いきんつばは、餡に寒天を加え、型に流し込んで固めた後に四角く切り、その表面に水溶きの小麦粉や白玉粉を付けて焼き上げます。「六方焼き」とも呼ばれ、六面をしっかり焼くのが特徴です。

和菓子の落雁

落雁という風雅な菓子の名には、いくつかの異なる説が存在します。昔は「らくかん」と呼ばれていたようで、中国から伝わった菓子であるとされています。名前の由来は、中国の「軟落甘(なんらくかん)」が日本に入り、「落甘」と省略され、やがて「落雁」となったとされています。文禄年間(1592年~1595年)に、米粉を固めた菓子を当時の帝に献上した際に、その姿が「白山の雪に匹敵する」との詩を賜り、それが「落雁」となったという話もあります。その他に、越中井波の瑞泉寺を開いた綽如上人が、雪に降り立つ雁を見て名付けたという説や、石山寺で蓮如上人が近江八景での雁の光景を見たという説もあります。さらに、加賀藩の前田利常が後水尾天皇に献上した際に賜った名前であるとも言われています。

和菓子の逸品:大福

大福は、かつて「腹太餅(はらぶともち)」と称されていたとの説もあります。その由来は、腹持ちが良いことを意味すると考えられていますが、元々は家庭で手作りされていたものでした。商業的に販売されるようになったのは江戸時代で、小石川に住んでいたおたまさんという人物が初めて売り始めたとされています。近年では、時間がたっても硬くならない大福も登場していますが、大福は本来餅でできているため、時間と共に硬くなる性質があります。かつては火鉢で温めて柔らかくして食べることが一般的で、焼くと香ばしさが増すため、昭和時代に入っても焼いて食べるのが通例でした。もし硬くなってしまったら、ぜひ試してみてください。

和菓子