日本の美しい四季とともに育まれてきた和菓子。その歴史は、遥か古代、縄文時代にまで遡ります。木の実や果実を口にした素朴な甘味が原点となり、米作の開始とともに餅が誕生。神聖な食物として扱われてきました。この記事では、時代とともに姿を変え、日本人の生活や文化に深く根ざしてきた和菓子の変遷を紐解きます。宮廷文化、茶の湯、そして現代の革新的な和菓子まで、甘味の歴史を巡る旅へご案内しましょう。
和菓子の起源:縄文・弥生時代における「餅」の誕生
和菓子の歴史は、食料が乏しかった古代、特に縄文時代にまで遡ります。当時の人々は、自然の中で採取した「古能美」(木の実)や「久多毛能」(果物)を、飢えをしのぐためのおやつとして食していました。これが、後に「果子」と呼ばれるもののルーツになったと考えられています。当時、食料を加工する技術がなかったため、果物から得られる甘みは特別な恵みであり、主食とは異なるものとして重要視されていたのでしょう。古代から日本に自生し、栽培されてきた果実の中でも、栗と柿は特に重要な役割を果たしました。栗には日本固有の野生種である「シバグリ」があり、その実は比較的小さかったとされます。一方、柿では1214年に現在の川崎市で発見された「禅寺丸」が、甘柿として日本で最初に記録された品種の一つとして知られています。これらの木の実や果物は、和菓子の原点となる、素朴な甘さの源でした。縄文時代の人々は、どんぐりなどの木の実を砕いてアクを抜き、混ぜて丸めたものを食べており、これが日本最古の加工食品であり、和菓子の原型であると考えられています。
その後、食料の保存と摂取方法には、さらなる進化が見られました。人々は木の実を天日で乾燥させて保存したり、石臼、こすり石、石槌などの道具を用いて粉砕し、長期保存する技術を開発しました。農耕が始まったとはいえ、まだ食料が十分ではなかった時代、人々はクヌギやナラの木の実、つまりどんぐりも食べていました。しかし、これらは非常にアクが強く、そのままでは食用に適しませんでした。そこで、木の実を砕いて粉にし、水にさらしてアクを抜くという工夫を凝らし、さらに団子状に丸めて加熱するといった調理法が生まれ、現在の団子の原型になったと考えられています。弥生時代になると、木の実の代わりに、稲作の開始によって米や穀物の粉を用いた餅や団子のような、餅菓子の原型となるものが作られるようになりました。
また、蒸したうるち米を丸めて保存食や行事食としていたという話も伝わっています。そして、やがて日本最古の加工食品ともいわれる「餅」が誕生しました。平安時代中期の辞書である『倭名類聚抄』(934年)には、「毛知比」や「持ち飯」として記録されており、当時最も貴重であった米を原料とする餅は、非常に神聖なものとして扱われました。その証拠に、『豊後風土記』などの文献にも、餅が神聖な食物として登場する記述が見られます。このように、古代の人々の知恵と工夫が、現在の和菓子へと繋がる加工技術と食品を生み出していったのです。
古代の甘味料と遣唐使が伝えた唐菓子の影響
現代の和菓子では砂糖が主な甘味料として用いられていますが、古代ではどのような甘味料が使われていたのでしょうか。まず一つは、米を発芽させた「米もやし」を利用し、そのデンプンを糖に変えることで作られた「飴」でした。この米もやしから作られた水飴は、『日本書紀』にも記録されており、後には麦芽が使われるようになります。もう一つの貴重な甘味料は、「甘葛」(あまづら)です。これは、冬に採取したツタの汁を煮詰めて作られた、一種のシロップでした。平安時代の随筆『枕草子』には、「削り氷(けずりひ)にあまづら入れて、あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる」という記述があり、現代のかき氷に甘葛をかけて金属製の器で食した様子を描写していると解釈できます。甘葛は非常に貴重で高価なものであり、長きにわたり諸国から朝廷や幕府への献上品とされていました。砂糖が初めて日本に伝来したのは750年頃ですが、一般的に広く使われるようになったのは江戸時代以降のことです。この甘葛は、奈良女子大学大学院において2011年1月に復元されました。
この復元プロジェクトは、「文化史総合演習」や「Web情報実習」の授業成果報告会において、「古代から中世の菓子の歴史」の研究報告や「甘葛煎」の講演会とともに実施されたものです。北九州市在住の甘葛煎研究者である石橋顕氏の指導のもと、大学構内のツタを切り出し、太いツタからは自転車チューブと空気入れやコンプレッサーを、細いツタからは口で吹き出す方法で樹液を採取しました。採取した樹液は布で濾過された後、煮詰める工程を経て復元されました。約5分の1の量まで煮詰められた結果、軽い飴状となり、糖度75%という高い糖度を示すことが確認されました。その甘さはハチミツとほぼ同程度で、雑味のない自然な甘さが特徴であると報告されています。この詳細な復元作業については、奈良女子大学の公式サイトで公開されています。
古代の甘味料に続き、日本のお菓子文化に大きな影響を与えたのが、中国(唐)へ派遣された遣唐使によってもたらされた「唐菓子」(からくだもの、またはからがし)です。遣唐使は、630年から894年の間に19回にわたり唐に派遣され、その帰路で多くの文化や技術、物品を持ち帰りました。その中には、「梅枝(ばいし)」「桃子(とうし)」「餲餬(かっこ)」「桂心(けいしん)」「黏臍(てんせい)」「饆饠(ひちら)」「鎚子(ついし)」「団喜(だんき)」などと呼ばれる多種多様な唐菓子が含まれていました。これらの唐菓子は、米、麦、大豆、小豆などをこねて作られ、油で揚げられることもあり、それぞれが独特の形をしていました。主に祭祀用として珍重され、日本の菓子文化に大きな影響を与えたと考えられています。こうした文化の伝来により、平安時代には朝廷に献上されるものとして和菓子が広まりました。実際、『源氏物語』の中にも「椿餅(つばきもち)」や「青差(あおさし)」などの和菓子が登場しており、美しく作られた和菓子がこの頃に誕生し始めたことが分かります。その後の和菓子の発展において、唐菓子の製法や意匠は重要な基盤の一つとなりました。
茶道の発展と和菓子の進化:羊羹の誕生とその背景
唐菓子に続き、日本の菓子文化に大きな影響を与えたのは、喫茶の流行でした。お茶は鎌倉時代初期、1191年頃に栄西禅師が中国から持ち帰り、日本に伝えました。その後、喫茶の習慣は徐々に広がり、室町時代(1336~1573年)後期には庶民にまで普及し、「茶の湯」として一大文化を形成するまでに至ります。その中で、千利休らによって茶の文化が「わび茶」として確立されると、これに伴い和菓子もさらに発展を遂げます。室町時代の茶席では、「点心」と呼ばれる、食事と食事の間の軽食が供されていました。この点心の中には「羹(あつもの)」という汁物があり、具材によって「猪羹」「白魚羹」「芋羹」「鶏鮮羹」など、実に多くの種類があったと伝えられています。その中に、「羊羹」の原型となる汁物も存在していました。
羊羹(ようかん)の起源は、中国に留学した禅僧が日本に持ち帰った「点心」と呼ばれる軽食であると言われています。この「羊羹」は元々、羊の肉が入った汁物でしたが、当時の日本では獣肉を食べる習慣がなかったため、代わりに羊の肉に見立てて麦や小豆の粉などで作ったものを汁に入れたのが始まりとされています。禅僧は肉食を禁じられていたため、麦や小豆の粉などで羊肉を代用していました。その羊肉に見立てた代用品が汁物から独立し、菓子として誕生したのが「羊羹」の起源であり、当時は蒸し上げた「蒸羊羹」が主流でした。ちなみに羊羹の「羹」の字は、一文字だと「あつもの」と読み、本来は肉や野菜を入れた温かい汁物を意味します。現在の羊羹を考えると、直接的な関連性はないように思えますが、もともと汁物だったことを考慮すると納得できます。その後、寒天が発見されると、現在のなめらかな食感を持つ「煉羊羹(ねりようかん)」へと変化したのは、寛政年間(1800年前後)のことです。茶の湯の菓子としては、羊羹以外にも「打栗(うちぐり)」「煎餅(せんべい)」「栗の粉餅(くりんこもち)」「フノヤキ」などが用いられており、これらが日本の菓子、すなわち和菓子の多様な発展に大きく貢献していきました。茶道は単に飲み物を楽しむだけでなく、そこに添えられる菓子にも洗練された美意識と技術をもたらし、和菓子文化をより深く豊かなものにしたのです。
南蛮菓子の伝来と江戸時代の和菓子文化の発展
茶道の発展に続き、日本の菓子文化に新たな息吹をもたらしたのは、安土桃山時代(1568~1600年)に渡来した南蛮文化、特にポルトガル人やスペイン人によって伝えられた「南蛮菓子」でした。16世紀以降、ヨーロッパとの交流が盛んになる中で、日本には多くの異文化が流入し、菓子文化も例外ではありませんでした。南蛮菓子で主に使用された材料は、小麦粉や砂糖、卵などであり、これらの材料を用いた菓子は当時の日本では珍しく、人々は新しい食べ物に興味を持ったことでしょう。特に大きな影響を与えたのは、長崎港から広まった砂糖の存在です。日本にも砂糖はありましたが、一般的に広く普及していたわけではありませんでした。1571年、ポルトガルとの貿易のために長崎港が開港され、そこからさまざまな調理法や香辛料、そして砂糖が日本全国へ広まるようになったのです。南蛮菓子として伝わったものの中には、「ボーロ」や「カステイラ(現在のカステラ)」、「金平糖(こんぺいとう)」、「ビスカウト(現在のビスケット)」、「パン」、「有平糖(あるへいとう)」、「鶏卵素麺(けいらんそうめん)」などがあり、これらは現在でも日本で広く親しまれている和菓子の原型となり、そのままの形で、もしくは和菓子の原型として今なお残されています。特にカステラや金平糖は、その製法や味わいが日本の食材や嗜好に合わせて独自に進化し、日本の菓子文化に深く根付いていきました。
南蛮菓子の影響を受けつつ、日本の和菓子は江戸時代に入ると目覚ましい発展を遂げます。戦乱の時代が終わり平和になったことで、日本はさまざまな文化に関心を向け、その発展に力を注ぐことができました。江戸時代以前の日本は、常に戦乱が続く不安定な時代であり、人々が菓子を楽しむ余裕はほとんどありませんでしたが、江戸時代が始まり戦乱が収束し、平和な時代が長く続いたことにより、菓子づくりに専念できる環境が整いました。これにより、和菓子の技術と文化は急速に発展していきます。意匠や菓銘など、細部にまで工夫を凝らした和菓子が次々と誕生するようになり、例えば、四季折々を表現する美しい「練切(ねりきり)」は、江戸時代に京都で生まれ、その後全国に広まったとされています。この時代には、日本各地の城下町や門前町で、その土地ならではの独自の和菓子が数多く生まれました。また、京都の「京菓子」と江戸の「上菓子」が互いに技術を競い合うようにして、菓銘や意匠(デザイン)に凝った、芸術性の高い和菓子が次々と誕生しました。この時代における和菓子の発展として、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗による砂糖作りの推進が功を奏したことも、大きな要因となりました。砂糖は本来サトウキビから作られますが、砂糖の国内生産を奨励したことで、各地でサトウキビが生産されるようになり、その中には現在の「和三盆」の生産地である香川県高松も含まれていました。
和三盆は通常のサトウキビよりも細い「竹糖」を使用し、製造工程にも手間をかけることで、一般的な砂糖よりも粒子が細かく、上品な甘さが特徴です。吉宗によるこの政策により、砂糖の国内自給率は向上しました。白砂糖や黒砂糖、和三盆など、精製方法や原料の異なる砂糖が生産されるようになり、江戸時代の後期頃には、一部の庶民の間でも砂糖を用いた和菓子が普及するようになりました。現在私たちが日常的に口にする和菓子の多くは、この江戸時代にその原型や製法が確立されたものです。江戸時代の和菓子文化の隆盛を示す貴重な資料として、『御蒸菓子御見本』と『御干菓子御見本』という菓子見本帖が現存しており、名古屋市蓬左文庫に所蔵されています。これらの資料からは、当時の和菓子がいかに多様で高度な技術を持っていたかを知ることができます。
明治以降の技術革新がもたらした和菓子の多様化
明治時代、日本は急速な近代化を推し進め、西洋文化が積極的に取り入れられました。この変化は和菓子の世界にも大きな影響を与え、特に西洋から導入された調理器具は、それまで日本にはなかった新しい調理法を可能にし、和菓子の可能性を大きく広げました。中でもオーブンの登場は、蒸し菓子が主流だった和菓子に革命をもたらし、栗饅頭やカステラ饅頭など、様々な焼き菓子が誕生するきっかけとなりました。このように、西洋の技術を取り入れながらも、日本の伝統的な美意識と融合させることで、和菓子は多様な進化を遂げ、今日に至る礎を築いたのです。
和菓子は、日本の食文化を基盤としながら、中国の唐菓子、南蛮菓子、そして明治以降の西洋文化など、様々な外来文化の影響を受け発展してきました。しかし、特筆すべきは、日本人が単に伝来した菓子を模倣するのではなく、その本質を深く理解し、日本の風土や食材、美意識に合わせて独自の工夫を凝らし、日本の菓子として昇華させてきた点です。和菓子には、四季折々の自然を表現した繊細な意匠、自然の恵みを活かした豊かな味わい、そして茶道に代表される精神性が込められています。これらは、日本人の豊かな感性と卓越した創造性の賜物であり、和菓子は単なる食品ではなく、日本の歴史と文化、そして人々の創造性が凝縮された芸術品と言えるでしょう。
餅もの:米を活かした伝統的な味わい
餅米やうるち米、またはそれらの加工品を主な原料として作られる和菓子です。おはぎ、赤飯、大福餅、道明寺、柏餅、すあまなどが代表的な例として挙げられます。
蒸しもの:蒸気で引き出す素材の風味
生地を成形した後、蒸して仕上げる製法で作られた和菓子の総称です。紅白蒸饅頭や黄味しぐれなどがその例として挙げられます。
焼き菓子:香ばしさが魅力の和菓子
火を通して焼き上げた和菓子で、製法によって様々な種類があります。平鍋で焼くもの、型に流し込んで焼くもの、オーブンで焼くものなどがあり、明治時代以降にオーブンの技術が導入されたことで、栗饅頭やカステラ饅頭といった焼き菓子が和菓子の世界で発展しました。クッキーやケーキは西洋菓子の代表ですが、和菓子もこの製法を取り入れ、独自の進化を遂げています。
流し菓子:寒天と餡が生み出す、涼やかな美
寒天、砂糖、そして餡を主な材料とし、それらを液体状にして型に流し込み、冷やし固めて作る和菓子です。その代表例としては、見た目も美しい錦玉羹や、夏の定番である水羊羹などが挙げられます。
練り菓子:素材を丹念に練り上げる、職人の技
主に餡をベースとし、つなぎとなる材料や砂糖を加えて、丁寧に揉み込み、こね、練り上げて生地を作ります。その生地を様々な形に成形して仕上げる、職人の技術が光る和菓子です。練切、こなし、求肥、雲平などがその代表的な例として知られています。
おかもの:組み合わせが生み出す、独自の美意識
あらかじめ用意された素材や、その他の材料を巧みに組み合わせて作り上げられる和菓子です。代表的なものとしては、もなかを挙げることができます。
まとめ
和菓子の起源は、遠く縄文時代に遡ります。当時の人々は木の実や果実を食し、弥生時代には米や穀物を加工する技術が生まれました。アク抜きや「餅」の誕生といった技術革新を経て、古代には「米もやし飴」や希少な「甘葛」といった甘味料が用いられ、菓子文化の基礎が築かれました。遣唐使によって伝えられた「唐菓子」は、米、麦、大豆、小豆などを練ったり揚げたりして作られ、平安時代には『源氏物語』にも登場するなど、祭祀用の菓子として定着しました。明治時代以降は、西洋の調理器具、特にオーブンの導入が栗饅頭やカステラ饅頭などの焼き菓子の発展を促し、和菓子は現代に至るまで、その姿を変えながら進化を続けています。このように、和菓子は単に外来文化を模倣するだけでなく、日本人の優れた創意工夫と美意識によって独自の文化として昇華され、日本の歴史と精神性を色濃く反映する芸術作品として、今日まで愛され続けているのです。
質問:和菓子の起源はどこにありますか?
和菓子の最も古いルーツは、縄文時代の人々が食料としていた自然の恵みに遡ります。具体的には、「古能美」(木の実)や「久多毛能」(果物)といった野生のものが、空腹を満たすために食されていました。中でも、どんぐりなどの木の実を砕いて粉にし、水にさらして苦味やえぐみを取り除いた後、丸めて食べるという調理法は、日本における加工食品の原点であり、和菓子の原型とされています。時代が進み、弥生時代になると、稲作が始まり、米やその他の穀物の粉を使った餅や団子のようなものが作られるようになりました。これらが、現代の和菓子へと繋がるルーツと考えられています。
質問:古代日本では、どのような甘味料が使われていたのでしょうか?
回答:古代の日本において甘味料として用いられていたのは、主に2種類あります。一つは、発芽させた米から作られる「飴(水飴)」です。もう一つは、冬に採取したツタの樹液を煮詰めて作る「甘葛(あまづら)」です。水飴については『日本書紀』にも記述があり、甘葛は『枕草子』にも登場するなど、いずれも貴重な品として扱われ、長きにわたり朝廷や幕府への献上品とされていました。砂糖が一般的に使用されるようになるのは、ずっと後の江戸時代以降のことです。
質問:「羊羹」はどのようにして現在の形に進化したのですか?
回答:羊羹の原型は、中国から伝来した「羹(あつもの)」という、羊の肉を用いた汁物です。日本では、当時獣肉を食べる習慣があまりなかったため、羊肉の代わりに麦や小豆の粉などを材料としたものを汁に入れたのが始まりとされています。その後、この羊肉に見立てた具材が汁物から独立し、菓子として蒸し羊羹が誕生しました。「羹」という字は、本来、肉や野菜が入った温かい汁物を意味します。そして、寒天が発見されたことがきっかけとなり、寛政年間(1800年頃)には、現在のなめらかな食感を持つ煉羊羹へと姿を変えました。
質問:和菓子はなぜ江戸時代に大きく発展したのでしょうか?
回答:和菓子が江戸時代に大きく発展した背景には、戦乱の終結と、それに伴う平和な時代の到来があります。平和な世の中となり、食料の安定供給が可能になると、人々は食だけでなく、文化的な豊かさを求めるようになり、菓子作りに時間と労力をかける余裕が生まれました。各地で独自の和菓子が開発され、特に京都の京菓子と江戸の上菓子が互いに影響しあい、菓子の名前やデザインに工夫を凝らした多様な和菓子が生み出されました。また、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が砂糖の生産を奨励したことも大きな要因です。これにより、和三盆などの国産砂糖が発展し、練り切りに代表されるような、芸術性の高い和菓子が誕生し、庶民の間にも広く普及しました。