和菓子歴史 - スイーツモール

和菓子歴史

和菓子歴史

日本の文化に深く根差した'和菓子'。その色鮮やかな外観や繊細な味わいには、美しい季節を感じさせてくれます。しかし、その華麗なる和菓子がいつ、どのようにして生まれ育ったのか、その歴史をご存知でしょうか?和菓子の歴史を探る旅に出かけてみましょう。その深い背景を知ることで、一つ一つの和菓子がさらに美味しく感じられ、その魅力をより深く理解することができることでしょう。

縄文・弥生時代の和菓子

縄文・弥生時代、それは日本文化の基盤が形作られた時代でもあります。そこには、木の実や米を原材料とした、原初の和菓子が存在しました。

縄文時代の人々は、太古の時代より自然の恵みを生かし、手に取る木の実を使用した手作りの団子を作り上げました。団子と言っても、現代のものと比べるとシンプルで荒削りなものでしょうが、和菓子の起源として知ることができます。

一方、弥生時代ともなると、時代の進歩に伴い技術も進化します。水稲耕作が開始され、米が大量にアクセス可能になったことで、米を基にした餅菓子が誕生しました。ここからはじまり、現存する大福や柏餅などの美味しい餅菓子の原点を見つけることができます。

弥生時代には、団子も発展を遂げ、うるち米を蒸して丸めた保存食能力のある食品として重宝されました。こうした団子や餅菓子の誕生は、稲作文化の発展と直結していることが語られています。

そうした古代からの和菓子の歴史は、断片的な文献や、伝承を基にして探り出さなければなりません。しかし、そんなミステリアスな過去から、今日の和菓子の風味や文化が昇華されたことには、何とも言えない感慨深さを感じます。

奈良時代の和菓子

日本の和菓子の歴史を紐解くとき、特筆すべき時期が奈良時代です。この時代には、中国大陸、特に、仏教が盛んだった唐朝から多大な影響を受け、日本独自の和菓子伝統が形成されつつあったのです。
唐から伝来したとされる代表的な菓子には、「ところてん」や「かりんとう」が挙げられます。これらの製法は唐菓子に由来を持ち、当時から日本人に親しまれてきました。奈良時代の神聖な文献である「正倉院文書」にも、「心太(ところてん)」と記され、中国からの影響を確認することができます。
一方で、日本独自の和菓子も誕生しました。「あられ・おかき」「おこし」はその代表例で、神事に由来し、また神前への供え物としても使われたことでも知られています。
仏教が伝来し、宗教文化が発展する中で、神々への供物として新しい菓子が次々と創造され、それがまさに和菓子の原型となったのです。この神事由来の菓子の文化は、現代まで日本の和菓子文化の基礎を成しています。
このような奈良時代の和菓子の歴史を知ることで、私たちが今日楽しむ和菓子が、いかに長い歴史を経て形作られてきたかが浮かび上がります。その深みとともに和菓子を味わうことで、日本の文化や美学をより深く理解できるのではないでしょうか。

平安時代の和菓子

平安時代と和菓子の歴史

平安時代というのは、平安遷都から鎌倉幕府が確立するまでの約90年間に及ぶ期間を指します。この時代には種々の和菓子がいきなり登場し、一種のブームを巻き起こしました。その中には、ちまき、いが餅、亥の子餅、花びら餅、わらび餅、あこや、ぜんざい、おはぎ、最中といった和菓子が含まれます。

この時間帯は、奈良時代に続き、中国からの文化導入が活発に行われていました。その結果、古代中国の習慣とともに菓子の基本形が多数導入されました。たとえば、「ちまき」は、中国で古くから存在した供え物の菓子が、端午の節句の慣習とともに日本に伝わったのです。「亥の子餅」も同様に、中国で行われていた疾病なく長生きを願う儀式「亥の子」が由来となっています。

一方、平安時代は祭り用のお菓子もたくさん作り出しました。古代から伝わる「いが餅」を始めとする嘉祥菓子、『今昔物語』に記録されている「おはぎ」、神在祭を由来とする「ぜんざい」など、神事を起源とするお菓子が豊富に生まれました。

このようにして、平安時代は今日の和菓子文化の基礎となる多彩な和菓子を創出し、日本人の生活に深く根付いていきました。その長い歴史と繊細な美しさを兼ね備えた和菓子は、まさに日本文化の象徴と言えるでしょう。

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鎌倉・室町時代の和菓子

現代に続く日本の和菓子文化の根幹を形成した鎌倉・室町時代。その時代の和菓子の魅力は、手仕事感溢れる温もりある風合いと、素朴だけれど贅沢な味わいにありました。砂糖が一般的に普及していない時代ながら、使われる素材の持つ自然の美味しさを最大限に活かしながら、和菓子は進化し続けました。

その代表的なものが、「饅頭」や「団子」でしょう。これらは身近な米を使って作られ、季節の果物や野菜を用いることで一年を通して様々な味わいが楽しめました。「水羊羹」もまた、この時代に生まれた和菓子の一つで、寒天を使って果物や豆などを美しく寄せて作る技術は、和菓子の芸術性を体現しています。

和菓子はまた、人々の日常生活の中で季節を感じる機会となり、また人々同士の絆を深めるコミュニケーションの一つでもありました。祝い事や儀式で欠かせない存在でもあり、また茶の湯とともに発展を遂げてきました。

鎌倉・室町時代の和菓子が現代まで受け継がれてきたのですから、その奥深さを知ることで我々は日本の文化に対する理解も深めることができるでしょう。そしてそれが新たな和菓子の創造につながることもあるかもしれません。今一度、古典的な和菓子に目を向けてみてはいかがでしょうか。

江戸時代前期の和菓子

江戸初期は、長きにわたる戦乱の時代が終わり、徳川幕府の成立とともに社会が平穏を取り戔すようになった時代であり、菓子産業においても革新的な変化が起こり始めた時期でした。経済の安息と商品の流通が活発化した結果として、砂糖の供給量も一気に増大し、多種多様な甘味の典雅が次々と生み出されました。

練り切り、きんつば、切山椒等、現代にもその名を残す伝統菓子がこぞって誕生し、広く流布したり人々の間で根を下ろした時勢でした。

特筆すべきは、特に茶菓子の隆盛でしょう。中でも、形状の美しさが一段と際立つ練り切りは、京都で広がりを見せた茶道文化を基に発展しました。切山椒についても、茶人としても知られる近江小室藩の初代藩主・小堀政一が好んで口にしたという逸話が伝えられています。

その当時は、洗練されたお菓子を添えた上品なお茶うけが多く誕生した時代ともいえるでしょう。

しかしながら、戦士達の時代が幕を閉じたわけではありません。江戸時代初期に生まれたきんつばの名前は、刀の「鍔(つば)」に由来することからも、その名残を今に伝えていると言えます。

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江戸時代中期の和菓子

江戸時代中期には和菓子が一般庶民から高貴な人々まで幅広く愛される文化となりました。この頃の和菓子は、季節や祭り、歌舞伎や浮世絵などと連携し、エンターテインメント性を持った美味しさから芸者たちや浮世絵師たちにも愛されました。

具体的には、「かるかん」のように白味噌や純白の砂糖を用いて甘さを控えめにした餡と、繊細な皮のバランスが評価され、全国的に知名度を得ました。しかし同時に地域差も見られ、例えば関東と関西で風味が異なる「さくら餅」が誕生しました。これらは文化の深化を象徴する余裕と豊かさを感じさせます。

さらに「今川焼」のような和菓子は、茶道の一環として、煎茶や濃茶と一緒に楽しむ風習も広まりました。また名物店の番付誌にも取り上げられ、日常会話のトピックとなったことから、大衆文化としての地位を確立しました。

また、「塩がま」のように木型で成形する技術が発展したのもこの時代。この江戸時代中期の和菓子は、その伝統や技術、感性が今日の和菓子に受け継がれ、楽しまれています。だからこそ、食べることだけでなく、見ること、身近な話題として語らうことも含め、十分な感性や感性を備えた甘美なエンターテインメントであったのです。

江戸時代後期の和菓子

江戸後期と和菓子の融合

江戸後期は、街道網の発展に伴い商品の流通が最高潮を迎えた時期であり、その中で安定的に生まれ続けた新たな和菓子たちが人々の舌を癒し、日本独特の甘みが文化として形を成した時期でもありました。

さまざまな彩りを持つ和菓子が誕生しましたが、現代でもなじみ深い栗きんとん、くず餅、柏餅、水羊羹、みぞれ羹、かのこ、甘納豆などは、その中でも特にリンクするものです。たとえば、当時、中山道沿いに存在した中津川で発展した栗きんとんは、まさに道路整備と共に発展した和菓子のひとつでした。

しかしながら、天保の大飢饉(1831年〜1845年)を含む自然災害や飢餓が続出した江戸中期から後期にかけては、無名の男性により「くず餅」が誕生し、多くの人々を飢餓から救うという歴史もありました。

この頃の人々の豊かな心が感じ取れるのが、みぞれ羹でしょう。練り羊羹に寒天と米粉を散らし、雪のような風貌を再現したこの美しい和菓子は、中世と比べ社会に余裕が生まれ始めた時代の高度な技術と感性が味わえます。このように、江戸時代後期の和菓子は、華やかさと技巧が至って極まった時期であり、まさに日本の美を具現化した甘美な文化であったと言えるでしょう。

明治時代の和菓子

明治時代に突入し、欧米の近代化に空気が揺れ始めた時点で、和菓子の風土も新たな展開を見せていました。新たな時代を迎え、既存の和菓子や新たな形式の和菓子が提案され、広がっていきました。

この期に、「落雁」や「羊羹」が初めて生まれ、日常市民の生活に対する甘さを提供していました。これは、売薬の独特な和風パッケージデザインから応用され、明治時代の風情を述べています。しかし、その一方で、季節感を大事にし、旬の素材を活用する日本の魂も変わらずに守られていました。

また、明治時代の和菓子は西洋の影響も受け、多様な形やデザインが生まれました。「たい焼き」もその一つで、既に広まっていた今川焼を基に開発された記憶にあたります。

さらに、明治時代の和菓子は、過去の江戸時代から引き続いて茶道との交流が深かったことも特筆すべきでしょう。「つやぶくさ」はその例で、風呂敷を種源とする名前が、明治の製法書に記録されています。その系譜のふくさ餅が生まれた場所は、茶文化がたくさん広がっていたとされる金沢です。

このように、明治時代の和菓子は、伝統を重んじつつも西洋の影響を取り入れ、新たな発展を遂げ、多様な和菓子が生まれた時代でした。和菓子の歴史を辿っていくと、その料理の豊かさおよび進化する姿を理解できるでしょう。

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昭和〜現代の和菓子

昭和時代と現代を通じて、我々は和菓子文化の進化と発展を見ることが出来ます。

昭和〜現代の和菓子

近代化の波が全てに広がり、一層の豊かさを迎えた昭和時代から現代。我々の楽しみである和菓子の世界もまた、進歩の歩みを止めませんでした。例えば材料の入手が容易になり、製造技術の進歩によって、かねてからの手作りの楽しみを広める環境が整備されてきました。

昭和初期に誕生した「あんみつ」は、この時代の豊かさを表しています。寒天、みつまめ(赤えんどう豆)、小豆あん、求肥、干し杏子、黒蜜・白蜜など、豪華な材料を気前よく使ったあんみつは、贅の極みとも言える逸品であります。

しかし昭和期は、戦争による物資不足などに見舞われ、和菓子の製造が時折中断されるなどし、混乱の空白期を経験しました。その結果、戦前・戦後を通じて営業を行っていた老舗の菓子店も、情けなくも廃業に追い込まれることとなりました。

それにもかかわらず、厳しい時代を見事に切り抜けた後の和菓子文化は、復活を遂げるどころか、更なる発展と成熟の道を歩むことができ、今日に至っています。

まとめ

和菓子の歴史を知ることで、その一つ一つの工夫や由来を理解し、日本文化の深層を見る鏡となります。舌で味わうだけでなく、目で楽しむことのできる和菓子は、日本の美意識や時間の流れを象徴しています。より豊かな和菓子体験のために、その歴史や背後にある思想をご一緒に探求してみてはいかがでしょうか。