大正時代のお菓子

大正時代のお菓子

大正ロマンの時代、西洋の文化が花開き、日本は急速な近代化を遂げました。その波は食文化にも押し寄せ、甘いお菓子の世界に革新をもたらします。和と洋が融合した、目にも美しいスイーツたちが誕生し、人々の心を魅了しました。モダンな時代を彩った、甘く贅沢な大正ロマンのお菓子たち。その魅力的な歴史を紐解き、甘美な誘惑に浸ってみましょう。

大正時代の菓子文化:その概観

大正時代(1912年~1926年)は、「大正ロマン」という言葉で表現されるように、西洋の文化が色濃く反映された時代でした。日本の社会、文化、そしてライフスタイルが急速に近代化を遂げる中で、菓子文化も大きな変貌を遂げました。和と洋の技術や発想が融合し、現代の日本の菓子文化の基盤が形作られたのです。この時代に生まれた様々なお菓子は、時を超えて今もなお、多くの人々に愛されています。

大正初期(1912~1916年):洋菓子人気の幕開け

大正初期、日本は開国を経て、西洋文化への強い憧れを抱いていました。その影響は食文化にも顕著に表れ、とりわけ洋菓子への関心が高まりました。日露戦争での勝利を背景に、国際的な地位を確立した日本には、欧米から様々な文化や技術が流入し、キャラメルやチョコレートといった新しいお菓子が次々と登場しました。

特別なデザート「アイスクリーム」

当時、アイスクリームは一般の人々にとっては高嶺の花であり、なかなか手に入れることのできない憧れのスイーツでした。まだ製氷技術が十分に発達していなかったため、アイスクリームは主に上流階級の人々が楽しむものでした。洋館で味わうアイスクリームは、贅沢の象徴であり、庶民が街でアイスクリームを買うことができるようになるのはもう少し後の時代のことです。しかし、この頃から徐々に製氷技術が向上し、一般家庭でも自家製のアイスクリームを作るなど、徐々に身近な存在へと変わっていきました。

外国人が伝えたお菓子の多様性

大正初期には、日本に滞在する外国人が増加し、特にドイツやロシアの菓子職人が本場の洋菓子技術を持ち込んだことで、さらにバラエティ豊かなお菓子が生まれることになりました。フランスやイギリス由来の洋菓子はもちろんのこと、ドイツやロシアのケーキも人気を博し、日本の洋菓子文化はより一層発展しました。その結果、洋菓子店が続々とオープンし、街を歩けば異国情緒あふれる新しい味覚に出会えるようになったのです。

階級で異なる甘味の風景

大正時代、甘味の世界は身分によって大きく異なっていました。富裕層は、舶来の高級菓子、例えばフランスやウィーンからの輸入品を嗜み、クリスマスなどの特別な日には豪華なケーキを囲んで祝宴を開くこともありました。一方、一般庶民の間では、伝統的な和菓子が中心で、きな粉をまぶした餅やおはぎ、素朴な餅などが日常的なおやつとして親しまれていました。また、都市部では駄菓子屋が子供たちの人気を集め、ラムネやあんこ玉などが子供たちの心をときめかせていました。

大正中期(1917~1922年):国産ブランドと定番商品の芽生え

大正中期(1917~1922年)を迎えると、日本の製菓業界は目覚ましい発展を遂げ、ビジネスとしても成熟期に入りました。森永製菓やグリコといった現代まで続く大手メーカーから、ミルクキャラメルやチョコレートなどの画期的な商品が次々と発売され、国産ブランドが確立されました。

果物を使った甘味の洗練

西洋文化の影響を受け、果物を使用したデザートが目覚ましい進化を遂げました。イチゴ、オレンジ、グレープフルーツなどの輸入された果物を使用したデザートは、特に上流階級の間で人気を集め、カフェではシャーベットやアイスクリームといった冷たい甘味が楽しまれるようになりました。これにより、従来の和菓子とは一線を画す、見た目も鮮やかで華麗な甘味が味わえるようになりました。

バタークリームの登場!ケーキの進化

1921年頃、ケーキの飾りとして用いられていた硬い砂糖衣(グラス・ロワイヤル)に代わり、滑らかな「バタークリーム」が登場しました。この変化により、ケーキの見た目と風味が飛躍的に向上し、現代に通じるケーキのスタイルが確立されました。バタークリームは、その後のケーキ文化に大きな影響を与え、競争を激化させる要因となりました。

大正後期(1923~1926年):震災からの復興と和洋折衷の深化

1923年の関東大震災は、我が国にとって類を見ないほどの痛手となりました。多くの菓子製造業者も甚大な被害を受けましたが、その後の復興過程において、製造技術は目覚ましい進歩を遂げ、より効率的かつ革新的な生産体制が確立されました。この時期には、森永製菓のマリー(1923年)、ユーハイムのバームクーヘン(1923年)、明治製菓のミルクチョコレート(1926年)など、現代においても広く愛される商品が相次いで誕生しました。これらの商品は、日本国民の不屈の精神を象徴する存在となり、家庭団らんや慶事の場において広く親しまれるようになりました。

庶民生活に浸透する洋菓子文化

大正後期には、洋菓子が大衆の間にも浸透し、キャラメルやチョコレートといった菓子類が日常的に享受されるようになりました。都市部と農村部の情報格差も徐々に縮小され、洋菓子文化は全国へと波及していきました。また、この時代には喫茶店文化が隆盛を極め、ケーキやプリンなどが喫茶店の定番メニューとして定着しました。和菓子と洋菓子が共に親しまれ、独自の和洋折衷文化が確立されていったのです。

大正時代に親しまれたお菓子:カルメ焼き、ラムネなど

大正時代のお菓子業界は、活気に満ち溢れていました。その中でも代表的なお菓子として、「カルメ焼き」や「ラムネ」が挙げられます。これらは屋台などで手軽に購入することができ、子供たちにとっては特別なご馳走でした。「カルメ焼き」は、砂糖と重曹を原料とした、口の中でふんわりと溶ける甘いお菓子で、その製造過程を見ているだけでも心が躍りました。「ラムネ」は、現代でも夏の風物詩として親しまれています。ガラス瓶内のビー玉を押し込むというユニークな仕掛けが、当時も子供たちの心を捉え、絶大な人気を博しました。

大正時代の食文化:カレーライスやコロッケの普及

大正時代において、特に人気を博した食べ物として、カレーライスやコロッケが挙げられます。これは、当時の日本が西洋文化を積極的に取り入れていた背景が大きく影響しています。特に都市部においては、「洋食屋」と呼ばれる飲食店が増加し、ビーフシチューやオムレツなど、現代では日常的に食される料理が「新しい味覚」として人気を集めました。また、学校給食においても洋食が提供されるようになり、カレーライスは子供たちの間で定番メニューとなりました。一般家庭でも容易に調理できるよう工夫され、庶民の間にも急速に普及しました。大正時代のグルメは、単なる「美味しさ」だけでなく、「洗練された近代的」なイメージをも内包していたのです。

大正生まれ、昭和育ちの定番菓子たち

明治時代から大正時代にかけて、今日まで続く数々の人気お菓子が誕生しました。例えば、森永ミルクキャラメル(1914年)、森永ミルクチョコレート(1918年)、カルピス(1919年)、グリコ(1922年)、森永マリービスケットとユーハイムのバームクーヘン(1923年)、そして明治ミルクチョコレート(1926年)などが挙げられます。これらの製品は、時代の変化とともに味やデザインを改良しつつ、幅広い世代に愛され続けています。

森永ミルクキャラメル

明治時代から令和の現在まで、五つの時代を超えて愛されるキャラメルです。お馴染みの黄色い箱のデザインは、洋画家の八木彩霞氏によるもので、登録商標であるエンゼルマークも発売当初のデザインがそのまま使われています。2014年には、その長きにわたる貢献が認められ、グッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞しました。

サクマ式ドロップス

『サクマ式ドロップス』と『サクマドロップス』は、名前は似ていますが、それぞれ別の会社が製造・販売する異なる商品であり、商標も別々に登録されています。元は同じ会社でしたが、戦後に分裂し、赤い缶の『サクマドロップス』(サクマ製菓)と、緑の缶の『サクマ式ドロップス』(佐久間製菓)がそれぞれ製造されるようになりました。なお、『サクマ式ドロップス』を製造していた佐久間製菓は2023年に廃業し、その歴史に幕を下ろしました。どちらも8種類の味が楽しめますが、定番のイチゴ、レモン、オレンジ、パイン、リンゴ、ハッカの6種類は共通のフレーバーとして親しまれています。

森永ミルクチョコレート

懐かしさを感じさせるパッケージが魅力の、日本で初めてのミルクチョコレートです。当時、チョコレートは輸入品しかなく、高価なものでしたが、森永製菓は製造工程を工夫し、コストダウンに成功しました。その結果、一般の人々にも手が届きやすい価格で提供されるようになりました。カカオ豆から丁寧に作られた、本格的な板チョコレートの定番として、今も多くの人に愛されています。

ボンタンアメ

南国・鹿児島に拠点を置くセイカ食品が世に送り出す、柑橘系の爽やかな風味が魅力の飴菓子です。その発祥は地方ながら、今や全国各地のコンビニエンスストアやスーパーマーケットで見かけることができます。大正時代に誕生した当初は、チンドン屋がその賑やかな音色とともに全国を巡り、宣伝に尽力したという逸話が語り継がれています。

ミルキー

「ミルキーはママの味~♪」という親しみやすいサウンドロゴと、愛らしいペコちゃんのキャラクターでおなじみの不二家ミルキー。その特徴は、ミルクの優しい甘さと、口の中でふんわりと溶けるようなソフトな食感です。2001年以降は、定番のミルク味に加え、塩味、あまおう苺味など、バラエティ豊かなフレーバー展開を見せており、沖縄や秋田といった地域限定品も登場しています。

エンゼルパイ

サクサクとしたビスケットで、ふっくらとしたマシュマロをサンドし、全体をチョコレートでコーティングした、どこか懐かしい味わいのお菓子です。サイズは直径約6.5cmの通常サイズと、約3.5cmのミニサイズの2種類があります。バニラ味が定番ですが、「あまおう苺の苺大福」のような期間限定フレーバーも楽しめます。類似商品として、ロッテの「チョコパイ」がありますが、こちらは1983年発売で、ケーキ生地でクリームを挟んでいる点が異なります。

ルックチョコレート

洗練されたLOOKのロゴとパッケージデザインは、「口紅から機関車まで」あらゆるものを手掛けたことで知られる、世界的な工業デザイナー、レイモンド・ローウィによるものです。ルックチョコレート最大の魅力は、そのフレーバーの豊富さにあります。期間限定品を含めると、常に10種類以上のバラエティ豊かな味わいを楽しむことができます。

チロルチョコ

1962(昭和37)年、初代チロルチョコは主に西日本の駄菓子屋で発売された。作ったのは、福岡県田川市でキャラメルやキャンディーなどを製造していた松尾製菓株式会社。2代目の松尾喜宣社長が「子供がお小遣いで買えるチョコレートを作ろう」と思い付き、ゼロから開発した商品だった。「1個10円」という価格設定が画期的でした。発売当初は3つ山でしたが、1979年に現在のミニサイズに。コーヒーヌガー、ミルク、きなこもち、イチゴなど、豊富なフレーバー展開も魅力です。地域限定品も多数存在します。

大正時代の洋菓子:ワッフル、ショートケーキ、シュークリームなど

明治時代から大正時代にかけて、西洋から様々な洋菓子が日本に伝来し、日本の職人たちの手によって独自の進化を遂げました。ワッフル、ショートケーキ、シュークリーム、エクレアなどは、当時の人々に新しい味覚体験をもたらし、今日まで親しまれる定番スイーツとして定着しています。

ワッフル

おしゃれなイメージのワッフルですが、その歴史は意外と古く、明治時代には既にレシピが存在し、大正時代には広く知られたお菓子となっていました。昭和初期の辞書にも掲載されています。現代ではワッフル単体で食されることが多いものの、当時はリンゴジャム(当時の発音では「ジャミ」)などを添えて味わうのが一般的でした。

ショートケーキ

ショートケーキが日本で広く知られるようになったのは、100年以上前の大正時代といわれています。日本独自のショートケーキの始まりには諸説あるのですが、サクサクのビスケット生地をやわらかいスポンジにアレンジしてショートケーキとして売り出したところ、多くの日本人の好みにマッチしたため一気に人気のケーキになったという説が有力といわれています。ほかにも、海外で修業したパティシエが日本に導入したという説もあります。いずれにしても、スポンジ生地に、クリーム・フルーツという組み合わせのショートケーキは日本独自のものなのです。そのルーツは、ビスケットにクリームとイチゴを重ねたアメリカのお菓子ではないかと言われていますが、詳しいことは分かっていません。

シュークリーム、エクレア

シュークリームは、幕末の頃に横浜で開業した洋菓子店を営むフランス人によって日本に紹介されました。その後、明治29年には日本の洋菓子店でも販売が開始されました。大正7年には、不二家がシュークリームとエクレアの販売を始めています。ただ、冷蔵庫が一般家庭に普及したのは昭和30年代に入ってからでした。

カスタードプリン

現代でよく見られるプリンとは少し異なりますが、カスタードプリンは大正時代には既に存在していました。当時のレシピ本には「牛乳卵砂糖寄温菓(カスタプリン)」と記載されています。しかし、当時はまだ基本的なレシピが確立されておらず、味や見た目も一定ではありませんでした。レモン風味のものや、カラメルソースがないものもあったようで、見た目は似ていても食感や風味が異なっていました。

ホットケーキ

ホットケーキは、明治30年代に初めて雑誌で紹介され、大正12年には「ハットケーキ」という名前で東京のデパートの食堂のメニューに登場しました。「ハットケーキ」という名前の由来は定かではありません。英語では通常「パンケーキ」(フライパンで焼くケーキ)と呼ばれ、アメリカでは厚めのパンケーキを「ホットケーキ」と呼ぶことがありますが、主流は「パンケーキ」です。日本で「ホットケーキ」という名称が広まったのは、最初にホットケーキミックスを発売した会社が、「温かいケーキ」という意味合いで商品名に採用したことがきっかけとされています。日本のホットケーキが西洋のパンケーキよりも甘いのは、「森永ホットケーキミックス」が甘めの味付けであったため、その味が定着したと考えられます。

モダンガールと大正ロマン:文化とファッション

大正時代、特に都市部の若い女性の間で、「モダンガール(モガ)」と呼ばれる新しいファッションが流行しました。洋風のワンピースや編み上げブーツ、庇髪(ひさしがみ)という前髪のスタイルが人気を集めました。また、上流階級の女性たちは「女学校」に通い、ピアノ、お琴、茶道、華道、書道など、様々な習い事に励んでいました。これらの習い事は、「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」を育成するための教育の一環とされていました。「大正ロマン」とは、大正時代に開花した独特の美意識や文化、ファッションなどを指す言葉です。西洋文化と日本文化が見事に融合したこの時代の雰囲気は、どこか懐かしく、そしておしゃれな魅力を放っています。

まとめ

大正時代は、日本の甘味文化が大きく花開いた時代と言えるでしょう。西洋から入ってきた洋菓子が、日本の気候や嗜好に合わせて独自の進化を遂げ、伝統的な和菓子と洋菓子の要素が融合した、革新的なお菓子が続々と登場しました。これらの甘い誘惑は、当時の人々の日常に彩りを与え、その味わいは現代へと受け継がれています。大正時代のお菓子を口にすることは、当時の文化や人々の暮らしに触れる、特別なひとときとなるはずです。

よくある質問

質問1:大正時代のアイスクリームは、誰もが気軽に味わえたのでしょうか?

いいえ、大正時代の初期においては、アイスクリームを作るための製氷技術がまだ発展途上であったため、非常に高価なものでした。そのため、主に富裕層の人々が楽しむことのできる贅沢品でした。しかし、時代が進むにつれて徐々に価格も下がり、一般の人々も手に届くようになり、家庭で作られることもあったようです。

質問2:大正時代に特に人気を集めたお菓子には、どのようなものがありますか?

大正時代には、カルメ焼きやラムネといったお菓子が、子供たちの間で絶大な人気を博していました。また、森永ミルクキャラメルやグリコなど、現代においても広く親しまれているロングセラー商品が、この時代に産声を上げています。

質問3:大正時代の食文化は、現代社会にどのような足跡を残しているのでしょうか?

大正時代に普及したカレーライスやコロッケといった洋食は、現代においても日本の食卓に欠かせない定番料理として定着しています。さらに、大正ロマンが持つ独特の雰囲気は、現代のカフェやファッションにも影響を与え、懐かしい雰囲気を求めるレトロブームを牽引する要素の一つとなっています。
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