甘い誘惑、香ばしい焼き菓子、冷たいアイスクリーム。私たちはいつから、これらを「お菓子」と呼び、愛でるようになったのでしょうか?この記事では、お菓子の定義を紐解き、その長い歴史を辿ります。古代から現代まで、お菓子は人々の生活に寄り添い、文化を映し出してきました。そして今、多様性を極めるお菓子の世界を、一緒に探求していきましょう。
菓子の定義と現代における役割
菓子とは、主食とは別に、楽しみとして味わう食品のことで、「お菓子」とも呼ばれます。一般的には、穀物の粉を加工して作られるパンや餅、砂糖をベースとした飴やチョコレート、そしてアイスクリームのような冷たい菓子など、非常に幅広い食品をまとめて「菓子」と呼んでいます。お菓子と聞くと甘いものを想像する人が多いかもしれませんが、楽しみのための食品は甘さだけではありません。例えば、お煎餅やあられのように、塩味や風味を活かした食品も菓子として親しまれています。菓子の概念は、文化や時代によって異なり、明確な定義は難しいものです。食文化が豊かになるにつれて、菓子は単なる栄養源としてだけでなく、喜びや心の満足を与えるものとして、私たちの生活に深く関わるようになりました。特に現代では、さまざまな材料や技術を組み合わせることで、その種類はますます広がっています。
近世以降、冷凍・冷蔵技術の進歩と、大規模な輸送を可能にする技術の発達により、菓子の種類と生産量は大きく増加しました。これにより、菓子を作る販売の仕方も大きく変化しました。以前は職人が手作りして、専門店(和菓子店、洋菓子店、煎餅店など)で売るのが一般的でしたが、工場で大量生産された包装済みの菓子が、スーパーやコンビニなどで売られるようになりました。この変化によって、品質が安定していて手頃な価格の菓子は工場で作られ、手間のかかる高級な菓子や、特定の地域でしか手に入らない繊細な菓子は専門店で作られるという役割分担ができました。このような産業構造の変化は、より多くの人が気軽に菓子を楽しめるようにするとともに、さまざまなニーズに応える商品開発を促しました。さらに、現代では、メディアやSNSを通じて情報が広がりやすくなったため、菓子の人気やトレンドがすぐに変化し、新しい消費の形も生まれています。
人類の味覚探求と菓子の起源
菓子の歴史は、人類が昔から甘さを求めてきたことと深く関係しています。約1万年前の洞窟の壁画には、蜂蜜を採取していると思われる絵が描かれており、人類は古くから蜂蜜や果物などの自然な甘さを求めていたと考えられています。また、人が生きていく上で必要な塩分は、その必要性から塩味という「おいしさ」として認識されていました。初期の人類が穀物を粉にして、それを練って焼いたり煮たりするようになった頃から、食べ物に対して単なる栄養だけでなく、甘さや風味を楽しむことが求められるようになりました。このように、ただ生きるための食事から、味の喜びを追求する欲求が、菓子を作る原動力になったと考えられます。この味覚への探求心が、さまざまな食材の発見、加工技術の進歩、そして地域ごとの独特な食文化の形成につながり、現代のような豊かな菓子の世界を作り上げました。初期の菓子は、自然の恵みを最大限に活用し、シンプルな方法で作られていましたが、その本質には現代の菓子にも共通する「嗜好品としての役割」がすでにあったと言えるでしょう。
古代文明における菓子の発展と職業化
農耕や牧畜が発展し、穀物が改良されるにつれて、製粉技術も向上し、菓子が作られるようになりました。紀元前4000年頃の古代シュメールやメソポタミアの宮殿跡からは、「うずくまるライオン」の形をした菓子の型が出土しており、当時の人々がすでに型を使って菓子を作っていたことがわかります。「イシンの農民の暦」の研究によると、マリ王朝には「メルスの製造者」という職業があったことがわかっています。「メルス」は、練った生地にデーツやイチジク、干しブドウ、蜂蜜、ナッツなどを混ぜて焼いたもので、これが現代のクッキーやケーキの原型になったとも考えられています。また、紀元前1175年のエジプト、テーベのラメセス3世の墓には、パンを作る施設と思われる壁画があり、パンと一緒に「ウテント」という渦巻き状の菓子のようなものが描かれています。エジプトの墓からは、食べ物を作る人々の像や実際の食べ物も出土しており、それらの研究から当時14種類もの菓子があったと推測されています。紀元前2000年頃に地中海で栄えたミノア文明は、アジアの文化を伝え、その影響を強く受けたギリシア文明には、誕生日を祝う現代のバースデーケーキのようなものなど、100種類もの菓子があったと言われています。紀元前2世紀頃からは砂糖も知られるようになり、その製造方法も工夫され、専門の職人もいました。獣脂や卵も菓子作りに使われるようになり、脂質を使った菓子作りの基本となる材料が揃い始めた時代でもありました。文明の発展期には、穀物を粉にして加工する技術が世界各地で生まれました。各地で生まれた文化が成熟し、ギリシアとローマのように互いに影響を与え合う中で、菓子はさらに多様化し、広まっていきました。現代のアラブ諸国で見られる揚げ菓子も、ギリシアで結婚式の菓子として使われていた蜂蜜入りの揚げ菓子が起源であると考えられており、食文化の伝播を示す証拠となっています。
紀元前7世紀頃に始まったローマ時代には、パンと菓子の区別がはっきりしました。それまで、菓子作りは女性の仕事として扱われることが多かったのですが、儀式で使う特別な菓子が求められるようになり、種類も増えたことから、男性も菓子作りに携わるようになり、紀元前1世紀頃には菓子職人が男性の職業として認められるようになりました。当初、権力者や富裕層のため、あるいは特別な儀式のために作られていた菓子は、職業として認められ充実していくにつれて、一般市民にも広まり、一部は市内で販売されるようになりました。また、ローマの生活と宗教は深く結びついており、工夫を凝らした菓子が神殿に供えられ、これが現代の菓子のデコレーションの原型になったとも考えられています。さらに、ローマ皇帝ネロは遠方から氷を運び、牛乳や蜂蜜、酒などを混ぜて冷やして飲んだとも言われており、アイスクリームのルーツもこの時代にあったという説もあります。ローマが繁栄するにつれて、菓子に使われる材料も多様になりました。紀元前327年、アレクサンドロス大王が東方遠征をした際、インドにサトウキビの絞り汁を発酵させた「葦の茎からとれる蜜」があることが報告されましたが、その発酵物を固めたと思われる「サッカラム」も、蜂蜜や果糖と同じように菓子作りに使われていたと考えられています。アウグストゥス帝の頃には、市内にパン屋と菓子屋が合わせて254軒もあったと伝えられており、型を使った焼き菓子やフルーツタルトも登場し、富裕層や貴族の宴会を飾りました。復活祭などで用いられる「マツァパン」や、クリスマスの定番である「パネトーネ」もローマ時代が起源と言われており、あらゆるものが集まる世界一の都市であったローマにおける菓子の隆盛が、現代菓子の基礎となったと考えられています。
ローマ帝国衰退後の菓子文化と宗教の役割
5世紀後半のローマ帝国の衰退後、ヨーロッパは多くの国々が生まれては争う「暗黒時代」を迎えました。この時代、5世紀から11世紀頃まで菓子作りにおいてローマのような発展は見られず、停滞期に入ります。また、都市の構造や家屋の整備も停滞し、柔らかいパンや菓子を焼ける大きなオーブンは一般の家庭にはなく、修道院や教会、荘園の領主などが所有していました。オーブンの使用料として卵や蜂蜜、チーズなどを納める必要がありましたが、これは一般市民にとっては不便である一方、納められた材料を使った菓子作りの専門化が進み、結果的にローマ時代に培われた菓子の製造技術が途絶えることなく受け継がれていくことになりました。修道院や教会は、技術継承の場として重要な役割を果たしていたと言えます。また、修道院や教会で行われる宗教行事や祝祭日のための菓子作りは、フランスの「ウーブリ(oublie)」や「オスティ(hostie)」などの宗教的な菓子を経て、クリスマスやイースターなど、後のヨーロッパにおけるキリスト教の行事を彩るさまざまな菓子の発展につながっていきました。宗教的な意味合いを持つ菓子は、信仰生活と深く結びつき、それぞれの祝祭に欠かせないものとして、その製法や装飾が工夫されていったのです。
イスラム文化、砂糖、そして十字軍がもたらした変革
7世紀にイスラム教が興り、イスラム帝国が隆盛を極めるのと時を同じくして、インドではサトウキビを非発酵で精製する技術が開発されました。これにより長期保存が可能となった砂糖は、貴重な交易品としての価値を高め、その流通とともに東西へと広がっていきました。8世紀から10世紀にかけてのイスラム帝国の時代には、北アフリカ一帯を支配下に置き、イベリア半島も征服して、地中海沿岸に広大な領土を築きました。これに伴い、サトウキビの栽培と精糖技術も地中海沿岸諸国へと伝播しましたが、砂糖がヨーロッパで広く知られるようになったのは、後の十字軍の時代です。イスラム教成立後、キリスト教世界との対立が続き、ヨーロッパで国家的な安定がようやく得られ始めた11世紀から13世紀にかけての約200年間、聖地奪還を名目に、キリスト教圏から東方へ十字軍が幾度も派遣されました。この大規模な人の移動は文化交流を促進し、軍事道路の整備は物流を活性化させ、その結果、砂糖や香辛料をはじめとする東方の産物がヨーロッパにもたらされました。しかし、イタリアの都市国家を経由する地中海貿易によってのみ入手できた砂糖は、当時のヨーロッパでは貴族や富裕層だけが手にできる非常に高価な品であり、そのほとんどが滋養強壮を目的とした薬として処方されるものでした。お菓子作りに使用する場合でも、当初はごく少量を使用する程度だったと考えられています。また、貴重品であった砂糖の取引は、やがて教会の許可制となり、修道院などで製造されていた薬酒の材料として香辛料とともに用いられるようになり、後には甘いリキュール酒としてお菓子作りに本格的に活用されることとなりました。
砂糖だけでなく、十字軍が持ち帰った様々な文化が、ヨーロッパの菓子作りに大きな影響を与えました。例えば、小麦の栽培に適さない寒冷地でも育てやすい穀物であるソバも、十字軍によってヨーロッパにもたらされたものです。フランスではソバを「サラザン(sarrasin)」と呼びますが、これは中世にアラブ民族を指した「サラセン人」に由来するとされており、現代でもクレープなど様々な菓子に利用されています。また、フランス南西部の「パスティス」とスペインの「パスティリャ」、トルコの「ハルヴァ」とバルカン半島の「バクラヴァ」の類似性からも、十字軍を通じた広範囲な文化交流があったことが伺えます。食文化の暗黒時代とも言われた中世でしたが、ローマ時代にほぼ完成していた焼き菓子に、砂糖やリキュールなどによる改良を加える素地が整った時代でもありました。さらに、インド原産のデーツや中国原産の柑橘類などがイスラム世界を経由し、十字軍によってヨーロッパに運ばれ、砂糖の普及とともに砂糖漬けにされた果物が食後のデザートとして用いられるようになり、糖菓としての地位を確立しました。また、ブドウ酒や果汁を入れた容器を塩を混ぜた雪や氷で冷やすという、現代にも通じる氷菓の製法も伝わりました。アラビア語で「飲む」という意味の「シャリバ」が語源とされるフランスの「ソルベ」や、英語の「シャーベット」といった氷菓もイタリアなどで作られ始めました。現代の欧風菓子の分類における、ケーキやタルトなどの焼き菓子を主体とするパティスリー(Pâtisserie)、飴やヌガーなどの糖質を主体とするコンフィズリー(Confiserie)、そしてソルベやアイスクリームなどの氷菓であるグラス(Glace)という区分は、中世の十字軍の東方遠征によって偶然にも育まれた文化交流によって確立されたと言えるでしょう。
ルネサンスと大航海時代における菓子の進化
ローマ帝国の衰退後、ヨーロッパは政治的な統一を欠き、紛争が絶えませんでしたが、地中海貿易を担っていたヴェネツィアやジェノヴァなどのイタリアの都市国家は、東方との交易を通じて経済的に発展していました。14世紀にこれらの都市国家を中心に始まったルネサンスは、芸術や科学だけでなく食文化にも影響を及ぼし、十字軍が持ち帰ったイスラム圏からの新たな食材(特に砂糖、香辛料、ナッツ類など)を用いて、より洗練された菓子が作られるようになりました。一方、15世紀末から16世紀初頭にかけて、イベリア半島はレコンキスタによってイスラム支配から脱却し、ヨーロッパの他の国々に先駆けて強力な王権を確立したスペインとポルトガルは、高まる民族意識を背景に勢力拡大に乗り出しました。新航路の発見は広大な植民地と新たな交易品をもたらし、両国に巨万の富をもたらしました。さらに、15世紀から16世紀にかけて、イスラム王朝の一つであったオスマン帝国が台頭し、地中海貿易をほぼ掌握したことによる貿易関税への不満も加わり、ヨーロッパ各国が外洋へと進出する「大航海時代」が到来しました。大西洋を渡り、カリブ海の西インド諸島はヨーロッパ諸国にとっての一大サトウキビ生産地となり、それまで貴重な輸入品であった砂糖をヨーロッパ人自らが精製できるようになりました。そして、スペインによって新大陸から持ち込まれたカカオ豆とチョコレートがヨーロッパに伝来したのも、この大航海時代でした。チョコレートは当初、苦い飲み物として飲まれていましたが、後に砂糖と組み合わされることで、菓子としての地位を確立していきました。このように、ルネサンスと大航海時代は、菓子の材料、製法、そして普及において、それまでの歴史を大きく変える画期的な時代となりました。
フランス菓子文化の集大成とその国際的影響
フランス菓子が今日、世界的に知られる完成度を得るに至った背景には、ヨーロッパ諸国の盛衰と王朝間の婚姻が深く関わっています。中世に諸侯が割拠していたフランスをまとめたヴァロワ朝が16世紀半ばに断絶した後、フランスはカトリックとプロテスタントの宗教戦争に苦しみました。1598年にフランスの勝利で戦争が終結し、以降フランスは徐々に国力を蓄え、幾度となくイタリアに侵攻し、イタリア戦争を引き起こしました。この戦争を通じてイタリアの文化に触れたフランスは、大きな影響を受けました。特に重要な転換点となったのが、1533年にフィレンツェのメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスが、政略結婚とも言える形でフランス王アンリ2世に嫁いだことです。カトリーヌは当時、文化的に遅れていたフランスにナイフとフォークを持ち込んだと言われ、実際に当時のイタリアの洗練された生活様式を再現するため、料理人や菓子職人まで連れてきました。マカロン、シュークリーム、フランジパーヌ、ヌガー、メレンゲ、バヴァロワーズなど、今日フランスの伝統菓子と思われているものの多くは、イタリアから伝わったものだと考えられています。さらに、スペイン王家からフランス王家へも菓子の技術が伝えられました。1615年にはアンヌ・ドートリッシュが、1660年にはマリー・テレーズがフランス王に嫁ぎ、チョコレートとその調理法もフランスにもたらされました。1725年にフランス王ルイ15世に嫁いだポーランド王スタニスラス・レクチンスキーの娘マリー・レクチンスカは、父娘ともに美食家として知られており、ポーランドの伝統菓子を参考に「ババ・オ・ラム(Baba au Rhum)」や「マドレーヌ」を考案したと言われています。また、1770年にオーストリアのマリー・アントワネットがフランス王ルイ16世に嫁いだことで、ドイツ菓子の製法もフランスに流入しました。このように、ヨーロッパ主要国の菓子の製法や食材がフランスに集まり、互いに影響し合うことで、ヨーロッパ菓子の集大成としてのフランス菓子が、完成に向けて大きく躍進することになります。この集大成の過程で、フランスは独自の洗練された技術と美意識を確立し、世界に誇る菓子文化を築き上げました。
菓子の製法系統化と近代パティスリーの確立
イタリアをはじめ、ヨーロッパ各地で生まれた菓子が、フランス菓子として現代に広く知られている要因の一つとして、菓子の製法を系統立ててまとめ、正確に伝播できるようにした点が挙げられます。その功績において特筆すべきは、18世紀後半、フランス革命前のフランスに生まれたマリー・アントワーヌ・カレームです。彼は製菓だけでなく料理の腕前も優れており、製菓や料理の技法を記した多くの著作を残しました。特に彼の著書「パティシエ・ロイヤル・パリジャン(Le Pâtissier Royal Parisien)」は、当時の製菓技術を網羅しており、後の世代の菓子職人にとってのバイブルとなりました。カレームは、ピエスモンテ、クロカンブッシュ、ヌガー、メレンゲ、シャルロット、ババロワーズなど、まさに現代の主流となっている口当たりの良い菓子を、この時代にデザートとして提案しており、その革新的な発想と技術は、同時代だけでなく後の菓子職人たちにも計り知れない影響を与えました。彼は単なる職人ではなく、菓子の芸術家であり、建築家でもありました。菓子の見た目だけでなく、構造や味わいのバランスを重視し、それを体系化することで、誰でも再現可能な技術へと昇華させました。これにより、フランス菓子は高い品質と洗練された美意識を維持しながら、弟子たちを通じてヨーロッパ各地、そして世界へとその技術が広まっていくことになったのです。
産業革命がもたらした砂糖産業の変革
18世紀後半、イギリスで始まった産業革命は、砂糖の製造方法に大きな変化をもたらしました。1747年、ドイツの科学者アンドレアス・ジギスムント・マルクグラフは、寒い地域でも育つ甜菜(ビート)から砂糖を作れることを発見しましたが、当時は熱帯のサトウキビからの供給量に及ばず、広く使われることはありませんでした。しかし19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトがヨーロッパの経済を支配するため、イギリスを封鎖したことにより、イギリスの植民地からのサトウキビ砂糖が手に入らなくなりました。そのため、ヨーロッパ大陸の国々では、甜菜の栽培と砂糖の生産が国によって奨励されるようになりました。この政策により、これまで特別な品だった砂糖の供給体制は大きく変わりました。19世紀中頃には、甜菜からの砂糖作りが安定し、砂糖産業は工業化されました。その結果、砂糖は貴族やお金持ちだけのものではなくなり、一般の人々も手軽に買える食品へと変わりました。砂糖の大量生産と低価格化は、様々なお菓子やチョコレートなどがたくさん作られ、広まるきっかけとなりました。昔からお金持ちや特別な人しか食べられなかった甘いお菓子が、ヨーロッパ中に広がり始めたことは、お菓子文化において大きな転換期となりました。産業革命は、お菓子の材料だけでなく、製造機械の発展も促し、大量生産を可能にしたのです。
氷菓・アイスクリームの近代化と普及
産業革命は、パティスリーやコンフィズリーの発展を助けましたが、特に氷菓やアイスクリームは、この時代を象徴するお菓子と言えるでしょう。昔から天然の氷は使われていましたが、大量生産は産業革命によって実現しました。1834年、ドイツのヤーコブ・パーキンスが実用的な製氷機を発明したことで、人工的に氷を作れるようになり、アイスクリーム製造の機械化が急速に進みました。1851年には、アメリカのボルチモアでジェイコブ・フッセルが企業としてアイスクリームの大量生産を始め、アメリカの国民食と言われるほど普及しました。フッセルは、余った牛乳を有効活用するためにアイスクリームの大量生産を思いつき、安い価格で安定的に供給できるようにしました。この大量生産システムによって、アイスクリームは贅沢品から誰もが楽しめる身近なデザートへと変わりました。その後、氷菓は、洗練されたデザートや高級品としてのヨーロッパ式と、大量生産による手軽なスナックとしてのアメリカ式の2つの方向に分かれて発展しました。ヨーロッパでは、昔ながらの製法や厳選された材料を使った職人技が重視され、デザートとしての価値が高められました。一方、アメリカでは、様々な味や簡単な形で販売され、多くの人々に親しまれるようになりました。産業革命は、冷たいお菓子の製造と流通に革命をもたらし、世界中で愛されるデザートとしての地位を確立する大きな要因となりました。
中国における「甜点心」の独自性
世界各地で似たような粉食文化が始まった頃、中国ではお菓子は特別なものとされ、点心として発展しました。現代において、世界で「お菓子」として知られているものを、中国の食文化の中で一つにまとめるのは難しいと言えます。中国の食事は、主食を食べる「吃飯(チーファン)」と、軽食を食べる「吃点心(チーディエンシン)」に大きく分けられます。「吃点心」の中でも、小麦粉などで作った皮で餡を包んだものを「点心」と言い、さらに甘いものを「甜点心(ティエンディエンシン)」と呼びます。例えば、中秋節に食べられる「月餅(ユエビン)」や、饅頭の一種である「豆沙包子(ドウシャーバオズ、あんまん)」などが有名です。同じく「吃点心」として、果物を意味する「果子(グオズ)」があり、新鮮な果物だけでなく、果物の砂糖漬けや果汁で作った甘いお菓子も含まれます。また、「甜湯(ティエンタン)」は、もともと「吃飯」の後に提供される甘いスープですが、少量の場合は軽食として「吃点心」として扱われることもあります。興味深いことに、アイスクリームや氷菓は、中国の食分類では「食事」ではなく「飲み物」に分類され、「喝的冷飲(ハーダレンイン、冷たい飲み物)」として扱われます。この独特な分類は、中国の食文化におけるお菓子の位置づけが、西洋や日本とは異なる歴史や文化を持っていることを示しています。
中国菓子文化の歴史的変遷
中国における穀物の加工技術は非常に古く、新石器時代の後期、紀元前3000年頃の龍山文化期には石臼や杵が使われており、穀物を砕いて加工する技術は昔から知られていました。しかし、粉を使った食事が中国の食文化に本格的に広まったのは、漢代の紀元前139年、武帝の命令で西域へ向かった張騫(チョウケン)が、西域から小麦とその製粉技術を持ち帰ってからです。これにより、小麦粉を使った食品の種類が増えました。北魏の末期、5世紀から6世紀頃に書かれた『斉民要術』には、粉を使った食事である点心について詳しく書かれており、小麦を加工した「餅(ビン)」などの記述も見られますが、当時の製粉技術は石臼と杵が中心で、大量生産は難しかったのです。しかし、7世紀初頭から10世紀初頭に栄えた唐の時代に、水車を使った大規模な製粉技術が導入されてから、中国の食文化は粉食が中心になったと考えられています。また、唐の時代はイスラム帝国が栄えた時代と重なり、世界の貿易拠点であった長安にはペルシア人もよく訪れていました。長安の都には、ドーナツのような揚げ物である「環餅(フアンビン)」や「油餅(ヨウビン)」などを売る店が並び、ペルシア風の食べ物「胡食(コショク)」が人気を集めました。この交流を通じて砂糖を作る技術も伝わり、甜点心はさらに発展しました。お茶を飲みながら点心や軽食を食べる、いわゆる飲茶という食習慣が全国に広まったのも唐の時代と考えられています。その後、元代にはモンゴル民族の食習慣が取り入れられ、牛乳や乳製品を使った甜点心が作られました。明代から清代には、日本の「かりんとう」なども中国全土に広がり、清末期から中華民国期にかけてはヨーロッパのお菓子も入ってきました。ビスケットは「餅乾(ビンガン)」として広まり、ケーキはヨーロッパ風のお菓子を意味する「西式点心(シーシーディエンシン)」として区別されました。
アメリカのお菓子
アメリカで親しまれているお菓子は、日本人の一般的な感覚からすると、甘味料や砂糖がふんだんに使われているものが多い傾向があります。また、人工的な風味が加えられていることも珍しくなく、例えばジュースであれば、香料や着色料といった、ある種独特な風味が感じられるものもあります。スナック菓子やグミなどのジャンクフードも人気です。チョコレートでは、ハーシー(Hershey's)が広く知られています。
上古・古代:日本固有のお菓子の芽生えと唐菓子の伝来
日本のお菓子の歴史は非常に古く、上古時代にその起源を見ることができます。紀元前の時代から大和時代にかけては、大陸からの文化が流入する以前であり、栗の実を粉末状にして固めて焼いたと考えられる、日本独自のクッキーのようなものが食されていました。また、古代の日本では、果実や木の実などをまとめて「くだもの」と呼んでいました。お菓子の始まりとしては、田道間守(たじまもり)が橘を常世国(とこよのくに)から持ち帰ったという伝説が残っています。その後、漢字が伝来し、「くだもの」に「菓子」あるいは「果子」という字が当てられるようになりました。奈良時代から平安時代にかけては、遣隋使や遣唐使によって、唐からお菓子とその製法が伝えられました。これらは唐菓子(からくだもの)と呼ばれるようになり、当時の単純な穀物の加工品と比べて、味、形、製法において優れていました。日本に伝わってからは、唐菓子に工夫を凝らした独自の菓子が作られるようになりました。果実とは全く異なる加工食品でありながら、嗜好品としては果実と同様であるとして「くだもの」と分類されたのではないかと考えられています。なお、加工食品としてのお菓子が伝来して以降、果物については「水菓子」と呼んで区別するようになりました。また、この時代の終わり頃には、砂糖の輸入が始まりました。
中世:茶の湯と和菓子の源流形成
鎌倉時代から南北朝時代にかけては、砂糖の輸入量が増加し、国内での生産も行われるようになりました。その一方で、茶の栽培が盛んになり、茶の湯の隆盛に伴い、茶菓子(点心、茶の子)が求められるようになりました。中国から肉類を使った肉まんや餃子が伝えられましたが、日本では仏教の影響を受け、肉類ではなく小豆や豆類といった植物性の素材で作られるようになりました。このように、砂糖と茶の文化が結びつき、点心が求められるようになったことが、後の和菓子の方向性を決定づけ、現在の和菓子の源流を生み出したと考えられています。
近世:南蛮菓子の影響と和菓子の多様な発展
室町時代の末期から安土桃山時代にかけて、世界は大航海時代を迎えており、ザビエルの来日以降、ポルトガル人やスペイン人によって、砂糖や卵を使ったカステラや、カラメルといった南蛮菓子が日本にもたらされ、日本のお菓子に大きな変化をもたらしました。カステラ、金平糖、ボーロ、ビスケットなど、日本独自の製法が考案され、和菓子として発展したお菓子も多く、これらの南蛮菓子は長崎を中心に全国へと広まりました。茶道とともに発達した点心は、安土桃山時代にさらに発展し、練り切りや餅菓子、飴から打ち物の落雁まで、工芸的な趣向を凝らしたものが作られるようになり、京菓子として最盛期を迎えました。しかし、政治・経済・文化の中心が江戸に移るにつれ、江戸時代の後期になると、京菓子に対抗して、地方で育まれた上菓子が隆盛を見せるようになります。また、白砂糖は上菓子にのみ使用するという制限を逆手に取り、黒砂糖を使った雑菓子類も、生活に密着した様々なお菓子として大きく発展しました。現在の和菓子のほとんどが、この江戸時代に作られたと言えるでしょう。
近代・現代:洋菓子の本格導入と産業化、消費スタイルの多様化
明治時代に鎖国が終わりを迎えると、ドロップ、キャンディ、チョコレート、ビスケットといった西洋菓子が海外から入ってくるようになり、日本の菓子業界に大きな変化をもたらしました。大航海時代以降の経済発展を経て成熟したフランス菓子などが紹介される一方で、産業革命による機械化された効率的な菓子製造技術も同時に伝わり、日本の「洋菓子」として独自の発展を遂げることとなりました。この時代には、森永製菓をはじめとする多くの製菓会社が次々と設立されました。一時、「菓子税」という国税が存在しましたが、明治29年(1896年)に営業税が国税に移管されたことに伴い、廃止されました。戦時色が濃くなった1941年には、洋菓子、和菓子にも公定価格が導入され、販売価格が全国で統一されました。しかし、ビスケットやキャンディなどは原材料に基づいて規格が定められたものの、羊羹などは重さだけで価格が決められたため、高価な材料の使用が避けられ、品質低下が問題となりました。1941年には改めてカステラなどに使用する卵や砂糖の量が定められるなど、製造者と消費者の間で混乱が生じました。第二次世界大戦後、昭和27年(1952年)に砂糖の統制が解除されると、菓子業界は一斉に活発化しました。昭和30年代に入ると、洋菓子、和菓子、米菓などが順調に成長し、機械化による本格的な大量生産時代に入りました。1971年にはチューインガム、キャンディ、チョコレート、ビスケットなど、すべてのお菓子が自由化され、日本の菓子産業は国際化時代を迎えました。昭和50年代以降、豊かな食生活と24時間化するライフスタイルの中で、人々の健康意識が高まり、それに合わせたお菓子が増えるなど、お菓子の種類や消費の仕方が多様化し、現在に至っています。
菓子の分類
一般的な分類として、和菓子と洋菓子があります。また、日本標準商品分類にも「菓子類」の項目があります。
特定商品の販売に係る計量に関する政令の別表第1第12号には「菓子類」の記載がありますが、この分類には以下のものは含まれないとされています。
一方、全国和菓子協会では、「製造後すぐに水分が40%以上、羊羹、饅頭、最中などが入ったものでは水分が30%以上含まれているもの」を生菓子とし、それ以外を干菓子とする基準を設けています。業界団体などは、生菓子と干菓子の分類に加え、以下の基準で菓子を分類しています。
製菓メーカー
日本では、明治時代から大正時代にかけてチョコレート、ビスケット、キャンディ、キャラメルなどが輸入されました。松井裕子(2018)によれば、神戸では港が開港した後の1870年には、オランダ人が創業したホテルで外国人向けに菓子を提供し、焼き菓子も製造していたことが知られています。1875年には、東京の老舗菓子店である米津・凮月堂がビスケットを商品化しました。その後、塩見菜摘(2022)によると、1899年には森永製菓が機械化による大量生産を開始しました。その後、1910年に不二家、1916年に東京菓子(後の明治製菓)、1922年に江崎グリコといった、今日でも知られる製菓メーカーが創業しました。これらのメーカーが手がけた洋菓子は、原材料が体に良いとされ、さまざまな販促活動を積極的に展開し、普及していきました。
塩見菜摘(2022)によると、戦後にはチューインガムに力を入れたロッテや、ポテトチップスで知られるカルビーなどが台頭してきました。塩見菜摘(2022)によると、1952年の砂糖統制撤廃から菓子大量生産時代、昭和30年代からの売上増加期と機械化による本格的な大量生産時代、1971年からの全菓子自由化を経て、菓子を扱う企業は成長していきました。そして昭和50年代以降は、人々の健康志向に合わせて、菓子業界も健康志向の時代を迎えているとされています。
日本では、1959年(昭和34年)に回転式の「Gram(グラム)」による菓子の量り売りが百貨店に初めて導入され、全国のデパートなどに広まっていきました。
英国
イギリスでは、16歳未満の子供向け番組における、脂肪、糖分、塩分を多く含む食品の広告が規制されています。2007年には、食品に含まれる安息香酸ナトリウムや合成着色料が子供の注意欠陥・多動性障害(ADHD)を引き起こす可能性を示唆する研究結果を受け、政府が注意喚起を行いました。特に、これらの添加物を含む飲料やお菓子が多いことが指摘されました。2008年4月には、英国食品基準庁(FSA)が、ADHDとの関連が疑われる6種類の合成着色料について、メーカーに対し2009年末までに自主規制を促しました。ガーディアン紙によると、大手メーカーは政府の勧告による自主規制に先立ち、2008年中にこれらの食品添加物を除去する動きを見せていました。自主規制の対象となった合成着色料は、タートラジン、キノリンイエロー、サンセットイエロー、カルモイシン、ポンソー4R、アリユラレッドACです。
しかし、2008年3月、欧州食品安全機関(EFSA)は、イギリスの研究結果は1日摂取許容量(ADI)の変更基準にはなり得ないと発表しました。それにも関わらず、イギリスは4月に改めて排除を勧告。8月には、欧州においてこれらの合成着色料を含む食品に対し、「注意欠陥多動性障害に影響を与える可能性がある」という警告表示が義務付けられる見通しであると報じられました。
米国
米国医学研究所(IOM)は、子供を対象とした高カロリーで栄養価の低い食品の広告が、肥満と関連性があるとして、業界の自主規制または政府の介入を求めました。シカゴ大学の報告によると、18歳未満をターゲットにした広告の9割以上が栄養価に乏しい食品に関するものであり、子供たちの食の好みに大きな影響を与えていると指摘されています。このような状況を受け、マクドナルドやペプシコといった大手企業11社が、12歳以下の子供に対するジャンクフードの広告を停止することで合意しました。
日本
日本においては、厚生労働省が実施する国民健康・栄養調査において、生活習慣病予防のための目標値を設定し、その達成を目指す取り組みが行われています。特に、甘味料、中でも砂糖が虫歯(う蝕)の発生原因となることから、甘味料に関する正しい知識の普及や、甘味食品・飲料の摂取回数を減らすことを目標としています。
まとめ
お菓子は、単なる栄養補給という役割を超え、嗜好品として人類の歴史と共に進化してきました。その起源は古代、蜂蜜や果実をそのまま食する時代に遡ります。農耕技術や製粉技術の発展に伴い、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマといった古代文明において、様々なお菓子の形態や製法が確立され、菓子職人という専門的な職業も生まれました。中世ヨーロッパにおいては、宗教が菓子の技術継承と発展に深く関わり、修道院や教会がその中心的な役割を果たしました。特に、イスラム文化圏から伝来した砂糖や、十字軍による東西交流は、ヨーロッパの菓子文化に大きな変革をもたらし、砂糖漬けの果物や氷菓といったお菓子の原型が誕生しました。ルネサンス期や大航海時代には、新大陸からもたらされたカカオや、西インド諸島での砂糖生産が、お菓子の材料や流通にさらなる革新をもたらしました。フランスでは、イタリア、スペイン、ポーランド、ドイツなど、ヨーロッパ各国の菓子製造技術が婚姻を通じて集約され、マリー・アントワーヌ・カレームのような偉大な菓子職人によって、製法が体系化され、洗練されたフランス菓子が世界的に知られる基盤が築かれました。産業革命は、甜菜(てんさい)からの砂糖生産や製氷技術の進歩を促し、砂糖を富裕層だけでなく一般の人々も楽しめる身近な存在へと変え、お菓子の大量生産と普及を可能にしました。一方、中国においては、「甜点心(ティエンディエンシン)」と呼ばれる独自のカテゴリーのもと、粉食文化と外国からの文化が融合し、月餅やあんまん、飲茶文化など、多様な甘味文化が発展してきました。そして日本においては、縄文時代の素朴なお菓子から始まり、唐菓子や南蛮菓子の影響を受けながら、茶道と共に発展した和菓子、そして明治時代以降の西洋菓子の導入と産業化を経て、お菓子はさらに多様化を遂げました。このように、お菓子は単なる食品としてだけでなく、それぞれの時代の技術、文化、貿易、社会構造を反映する鏡のような存在であり、その進化の過程は、人類の創造性と、味覚に対する飽くなき探求の物語そのものであると言えるでしょう。
お菓子とは、具体的にどんな食べ物を指すのでしょうか?
お菓子とは、私たちが日頃口にする食品の中で、主食としてではなく、風味や食感を楽しむことを目的としたものを広く指します。その範囲は非常に広く、小麦粉などを加工して作られるパンやケーキ、砂糖を主な材料とするキャンディやチョコレート、冷たいデザートであるアイスクリームなども含まれます。一般的には甘いものが想像されやすいですが、せんべいやあられといった塩味やスパイスの効いたものもお菓子として分類されます。
お菓子の歴史は、いつ頃から始まったのでしょうか?
お菓子の歴史は、人類がまだ文字を持たない時代から、自然界に存在する甘さ、例えば蜂蜜や果物などを探し求めていたことに端を発します。およそ1万年前の洞窟に描かれた壁画には、蜂蜜を採取する様子が描かれており、その起源の深さを物語っています。本格的なお菓子作りは、農業の発展とともに穀物を粉にする技術が確立された古代文明の時代に始まったと考えられています。
古代エジプトやローマでは、どんなお菓子が食べられていたのでしょうか?
古代エジプトでは、紀元前1175年頃の壁画に、渦巻き状の形をした「ウテント」というお菓子が描かれており、当時の研究からは14種類ものお菓子が存在していたと考えられています。ローマ帝国においては、パンとお菓子が明確に区別され、型を使った焼き菓子やフルーツタルトなどが作られていました。「マジパン」や「パネトーネ」のルーツも、このローマ時代に遡ると言われています。
お菓子を作る職人という仕事は、いつ頃確立されたのでしょうか?
お菓子職人という職業は、紀元前7世紀頃のローマで、男性の仕事として確立され、紀元前1世紀頃には法的に認められるようになりました。それ以前は、お菓子作りは主に女性が家庭で行う料理の一部でしたが、儀式などで使用する特別な菓子の需要が増え、種類も多様化したことで、専門性が高まり、職業として発展していったのです。
ヨーロッパの菓子文化は、イスラム文化や十字軍によってどのように変化しましたか?
7世紀にイスラム文化圏で確立されたサトウキビ由来の製糖技術は、地中海地域へと広がりを見せました。11世紀から13世紀にかけての十字軍の遠征が、砂糖や東洋のスパイスをヨーロッパにもたらし、菓子作りの素材に革新をもたらしました。さらに、ソバといった新たな穀物や、ハルヴァやバクラヴァのような揚げ菓子や甘いお菓子の製法も伝わり、現代のパティスリー、コンフィズリー、グラスといったヨーロッパ菓子の分類に影響を与えました。
フランス菓子が発展した背景には、どのような要因が考えられますか?
フランス菓子が世界に認められるほどの完成度に至った背景には、ヨーロッパ各国の王室間の婚姻を通じた文化交流が大きく影響しています。特に、16世紀にフィレンツェのメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスが、洗練された菓子作りの技術や料理人をイタリアからフランスに連れてきたことは大きな転換点となりました。その後、スペイン、ポーランド、ドイツなどからもチョコレートや様々な製法が伝わり、これらの技術がフランスに集結し、マリー・アントワーヌ・カレームのような偉大な菓子職人によって体系化されたことが、フランス菓子独自の発展を促しました。
産業革命が菓子製造にもたらした影響とは何ですか?
産業革命は、菓子製造業に計り知れない影響を与えました。中でも、甜菜(てんさい)からの砂糖精製技術が工業化されたことで、砂糖の大量生産が可能となり、価格が大幅に低下しました。その結果、これまで富裕層だけが楽しんでいたお菓子が、一般の人々にも手が届くようになり、ビスケットやチョコレートなどの普及を後押ししました。また、製氷機の発明と機械化は、アイスクリームの大量生産を可能にし、大衆的なデザートとして広く受け入れられるきっかけとなりました。
日本における菓子の歴史は、どのように変遷してきたのでしょうか?
日本の菓子は、縄文時代に栗の粉を固めて作られたクッキーのようなものから始まりました。古代には、果物や木の実を「くだもの」と呼んでいました。中国から伝わった穀物加工品は「唐菓子」と呼ばれ、後に「水菓子」と区別されるようになります。鎌倉・室町時代には、茶道の発展とともに点心が進化し、肉類を使わない植物性の素材を中心とした和菓子が形成されました。室町時代末期から江戸時代にかけては、ポルトガルから伝来した南蛮菓子(カステラ、金平糖など)が広まり、日本独自の和菓子へと発展しました。安土桃山時代には、京菓子が工芸品のような美しさを追求し、隆盛を極めました。江戸時代後期には、地方色豊かな上菓子や、黒砂糖を使った素朴な雑菓子も発展しました。明治維新後、鎖国が解かれると、海外から洋菓子や近代的な製造技術が導入され、菓子税の導入と廃止、戦時中の公定価格制度など、大きな変化を経験しました。
お菓子の分類基準とは?
お菓子は、そのルーツや製法によって「和菓子」と「洋菓子」に大きく分けられます。また、商品の分類基準として用いられる日本標準商品分類にも「菓子類」という項目が存在します。業界においては、製造後の水分量によって分類されることが多く、例えば水分が一定割合以上(40%以上、または餡入りの場合は30%以上)含まれるものを「生菓子」、それ以外のものを「干菓子」とするのが一般的です。ただし、法律によっては、お菓子とみなされない食品も存在します。
お菓子と健康:各国の取り組み
お菓子の過剰摂取と健康問題、特に子供の肥満やADHDとの関連性に着目し、各国で様々な対策が実施されています。イギリスでは、16歳以下の子供をターゲットにした、脂肪分、糖分、塩分の高い食品のテレビCMが規制されており、特定の合成着色料については自主的な規制や注意喚起表示が推奨されています。アメリカでは、高カロリーで栄養価の低い食品の子供向け広告が肥満の一因であるとされ、主要企業が12歳以下の子どもに対するジャンクフード広告を自粛する動きが見られます。日本においては、厚生労働省が虫歯予防を目的に、砂糖をはじめとする甘味料に関する正しい知識の普及や、甘い食品・飲料の摂取頻度を減らすことを目標とした活動を展開しています。