日本の菓子文化のルーツを辿ると、意外なルーツが見えてきます。それは、遠く中国・唐の時代に遣唐使によって伝えられた「唐菓子(からかし)」と呼ばれる菓子の存在です。米や麦、豆などの粉を甘味料で練り、油で揚げた唐菓子は、当時の貴族や寺院で珍重される特別なものでした。この記事では、唐菓子が日本の菓子文化にどのような影響を与え、どのように発展していったのか、その歴史と魅力を紐解きます。
唐菓子の伝来と多様な定義:中国からの影響と日本での解釈
唐菓子(からがし、からくだもの、とうがし、または唐菓物とも呼ばれる)は、中国(唐代)から仏教とともに日本に伝わった菓子の総称であり、日本の和菓子文化に大きな影響を与えました。その製法は、米、麦、豆などの粉に甘味料である甘葛(あまづら)の煮詰めた汁を加えて生地を作り、特徴的な形に成形して油で揚げるというものでした。具体的には、米粉や小麦粉を練ったものを油で揚げたり、炒めたり、茹でたりし、甘葛の煮詰めた汁や水飴を甘味料として使用しました。献上品には蜂蜜も用いられ、これらをこねて果物の形にし、油で揚げることが多かったようです。「からがし」や「唐果物」とも呼ばれ、当時は果物を菓子と呼んでいたため、「唐果物」とも呼ばれていました。唐菓子は、遣唐使(630年から894年の間に19回派遣)によって、7~8世紀に唐から日本へ持ち込まれました。中国の唐時代には既に作られていたことが知られていますが、日本における文献上の初出は、平安時代中期に成立した『倭名類聚抄』です。しかし、「唐菓子」の定義は、中国全般から伝来したものと捉える文献と、唐代に日本に持ち帰られたものに限定する文献があり、菓子研究における基本的な議論の対象となっています。また、すべての「唐菓子」が純粋に唐から伝来したものであるとは限らず、原型が伝来した後に、日本人の味覚や文化に合わせて独自の変化を遂げたものも「唐菓子」として認識されていた可能性があります。その多様な形態と製法は、日本の菓子作りに新たな技術と発想をもたらし、後の和菓子発展の基礎となりました。これらの唐菓子は、宮中の節会や大寺、大社への供物として用いられ、神仏事用の加工食品として扱われたため、一般庶民の口には入らない貴重なものでした。
「菓子」の概念の変遷と日本の粉食文化:自然の恵みから人の手による菓子へ
古代日本において「菓子」という言葉は、本来「果子」と書き、野生の木の実や果物を指していました。しかし、唐菓子の伝来と共に、米、麦、豆などの穀物を粉にして加工した菓子が普及し始めると、「菓子」の概念は自然の「果子」と、人の手による加工食品としての「人工菓子」の両方を含むように変化しました。唐菓子は、奈良時代には存在し、平安時代には宮廷や神社における重要な供物として用いられるほどに広まっていました。これらの菓子が米や麦の粉を原料としていたことから、日本の粉食文化の発展に貢献したと考えられます。しかし、当時の日本では米の粒食が中心であり、粟や稗と比較して小麦の脱穀は複雑で、粉砕のための適切な道具も不足していたため、小麦粉を主原料とする粉食文化が一般に浸透するのは中世以降のことでした。この背景から、唐菓子の普及は一部の上層階級や祭祀用途に限られていたと考えられ、日本の食文化における穀物の位置づけが、加工菓子の発展にも影響を与えていたことが示唆されます。
古典に見る唐菓子の姿:『倭名類聚抄』と八種唐菓子
唐菓子に関する最も初期の重要な文献記録は、平安時代中期に編纂された『倭名類聚抄』に確認できます。この百科事典の巻第十六飲食部にある「歓喜団」の項には、「楊氏漢語抄」の原注として「八種唐菓子」が挙げられています。これには、梅枝(ばいし)、桃子(とうし)、餲餬(かっこ)、桂心(けいしん)、黏臍(てんせい)、饆饠(ひちら)、鎚子(ついし)、団喜(だんき)といった具体的な菓子名が含まれており、これらは米、麦、大豆、小豆などの粉を練り、油で揚げるなどして作られ、その特徴的な形状から祭祀用として珍重されたとされています。また、源氏物語の中には「粉熟」という唐菓子が記されています。それぞれの唐菓子の製法や形は様々で、例えば、「梅枝」は米粉を蒸し、T字型や鍬形に形を整えて着色し、油で揚げたものでした。「桃枝」は梅枝と同様のものとされますが、詳細は不明です。「餲餬」は小麦粉を練って揚げたもの、「桂心」は肉桂皮の粉末をまぶした餅を指します。「黏臍」は糯米粉(白玉粉のようなもの)を練り、へその形にして油で揚げたものでした。「饆饠」は糯米粉を練って煎餅のように平たくして焼いたもの、「団喜」は小麦粉を練って餡を包み油で揚げたものでした。そして、「鎚子(ついし)」は米粉や小麦粉を練って蒸し、里芋やドングリの形にした餅で、「ぶと」はうさぎが伏せた形に似ていることから「伏兎」とも書き、油で揚げた餅でした。当時の八種唐菓子の中にうさぎをモチーフにした菓子があったことは興味深く、現代の縁起の良い動物として兎をモチーフにした練り切りなど、和菓子には古くから動物をかたどる文化が根付いていたことがうかがえます。しかしながら、『倭名類聚抄』はこれらの菓子の具体的な製法を詳述しておらず、そのため唐菓子の製法は時代と共に様々な変化を遂げた可能性が高いと推測されています。また、『倭名類聚抄』はこれら「八種唐菓子」の他に、餢飳(ぶと)や索餅などを含む14種類もの菓子を「果餅」として紹介しており、当時の菓子文化の多様性を示しています。特に、「八種唐菓子」の中でも餲餬、黏臍、饆饠、桂心といった種類は、鎌倉時代末期には既にその形が分からなくなるほど変化していた、あるいは忘れ去られていたと「建武年中行事」などの記述からうかがえます。ただし、これは南北朝時代という特殊な状況下で、南朝方に詳しい記録者がいなかった可能性も考慮に入れるべきです。これらの古典を通じて、唐菓子が日本に定着し、形を変えながらも文化の一部となっていった過程を知ることができます。
鎌倉・江戸時代の唐菓子研究:『厨事類記』と『集古図』が示す多様性
平安時代に伝来し、日本の食文化に溶け込んでいった唐菓子は、時代と共に製法や形態が変化し、様々な文献によってその姿が伝えられてきました。特に鎌倉時代には、唐菓子について網羅的に紹介した書物として『厨事類記』が存在します。この文献からは、当時の唐菓子の生地に使われていた多様な素材が明らかになっており、具体的には、うるち米を原料とする生地、もち米と大豆の粉に塩を加えた生地、さらには小麦粉や小豆の粉をベースにした生地などが見て取れます。これは、唐菓子が単一の製法に留まらず、日本の風土や食習慣に合わせて進化を遂げていたことを示していると考えられます。また、江戸時代中期に著された『集古図』には、大膳職、公家、そして神社といった特定の機関や家系に伝わる唐菓子の図が多数収録されており、その多くが後世の書物にも引用されるほど貴重な史料となっています。これらの図からは、唐菓子が伝統的な儀礼や上流社会で長く重んじられてきた様子がうかがえます。しかしながら、『集古図』に描かれたものが、奈良時代や平安時代に日本に伝来した唐菓子の原型をどの程度正確に保持しているかについては確証がなく、長い歴史の中で、日本独自の解釈や工夫が加えられていった可能性も指摘されています。これらの記録は、唐菓子の多様な歴史と、その姿が時代と共にどのように変遷していったかを探る上で、非常に重要な手がかりとなっています。
明治以降の唐菓子:祭祀儀礼への継承と現代の姿
日本の伝統的な菓子、唐菓子は、明治時代に入り大きな変容を遂げました。明治初期の神仏分離令、そして国家神道政策に伴う儀式改革は、祭祀における供え物の形態に影響を及ぼしました。神への供え物は、未調理の生鮮食品「生饌(せいせん)」が基本とされ、調理された「熟饌(じゅくせん)」を供える習慣は、ごく一部の神社に残るのみとなりました。しかし、古くから祭祀に用いられてきた唐菓子は、その伝統的価値と象徴性から、一部の重要な神社で熟饌として供え続けられました。現在、神社に供えられる唐菓子としては、梅枝(ばいし)、団喜(だんき)、餢飳(ぶと)、糫餅(まがり)などが挙げられ、これらの菓子は特定の神社の祭祀で目にすることができます。例えば、伊勢神宮では梅枝、餢飳、糫餅などが、熱田神宮では餢飳、糫餅などが、春日大社では「兎餅」と呼ばれる唐菓子が、それぞれ神聖な供物として用いられています。これらの例は、唐菓子が単なる菓子としてだけでなく、日本の宗教的・文化的な伝統を伝える存在として、時代を超えて受け継がれていることを示しています。
喫茶文化の到来と和菓子:栄西禅師と茶の湯の広がり
唐菓子の影響に加え、和菓子の発展に大きな転換点をもたらしたのは、喫茶文化の到来と茶の湯の普及でした。鎌倉時代初期、1191年頃、栄西禅師が大陸から茶の種子と喫茶の習慣を持ち帰り、日本に広めました。当初は禅宗の修行における眠気覚ましや薬用として用いられましたが、次第に武家社会や公家社会に広がり、室町時代には精神性と芸術性を伴う「茶の湯」として確立されました。茶の湯の普及に伴い、茶席で供される菓子、すなわち「点心」と呼ばれる軽食の重要性が高まりました。点心は、食事以外の軽食として、茶の味わいを引き立て、口直しとしての役割を担い、和菓子の多様な発展を促しました。茶道という日本独自の美意識が、菓子に繊細な意匠や洗練された味わいを求め、それが和菓子を芸術の域へと高める原動力となりました。この時期に、後の和菓子の基礎となる多くの菓子が生まれ、現代まで受け継がれています。
羊羹の変遷:汁物から和菓子の代表へ
茶道の隆盛は、特に「羊羹」という和菓子の誕生と発展に大きく貢献しました。元々「羹(あつもの)」は、室町時代の茶席で点心として提供された汁物を指し、具材によって「猪羹」「白魚羹」「芋羹」「鶏鮮羹」など様々な種類がありました。その中に「羊羹」という汁物があり、本来は羊の肉を入れた熱いスープでした。しかし、当時の日本では仏教の影響などから獣肉食の習慣が一般的でなかったため、中国から伝わった羊羹をそのまま受け入れることは困難でした。そこで、日本の菓子職人たちは工夫を凝らし、羊の肉に見立てて麦や小豆の粉などを練り固めたものを汁の中に入れるようになりました。これが汁物から独立し、羊の肉に見立てた部分が「蒸羊羹」として単独の菓子として確立されました。その後、寒天が日本に伝えられ、その特性が理解されるようになると、寒天を用いて小豆餡を固める「煉羊羹」が考案されました。煉羊羹は、寛政年間(1800年前後)に現在の形に近いものが完成し、透明感と滑らかな口当たりで人々を魅了し、茶席菓子の代表として広く愛されるようになりました。羊羹は、異文化の要素を日本流に解釈し、独自の進化を遂げた和菓子文化の象徴と言えるでしょう。
室町時代の茶席を彩った菓子:打栗、煎餅、栗の粉餅、フノヤキ
室町時代の茶の湯の流行期には、羊羹の他にも様々な菓子が茶席を彩り、和菓子の発展に貢献しました。茶道が求める美意識と季節感を表現するため、菓子職人たちは素材や製法に工夫を凝らし、多種多様な菓子を生み出しました。具体的な茶席菓子としては、「打栗(うちぐり)」がありました。これは栗を加工したもので、その素朴ながらも豊かな風味が、茶の繊細な香りと調和しました。また、「煎餅(せんべい)」もこの頃から存在し、現在のような米菓だけでなく、小麦粉などを練って焼いたものも含まれていたと考えられます。カリッとした食感は、茶の合間の口直しとしても適していました。さらに、「栗の粉餅(くりのこもち)」も重要な菓子の一つでした。栗を粉にして餅に練り込んだもので、栗の甘みともちもちとした食感が特徴です。そして、「フノヤキ」と呼ばれる菓子も登場します。これは小麦粉や米粉を水で溶いて薄く焼き、餡などを挟んだもので、現在の麩焼き煎餅や最中の原型ともいえる菓子です。これらの菓子は、単に甘味としてだけでなく、茶席の雰囲気を高め、亭主の趣向を示すための要素であり、その後の和菓子が多様な進化を遂げるための基礎を築きました。茶道との密接な関係は、和菓子が単なる食品を超えた、文化的な芸術品としての地位を確立する上で不可欠なものであったと言えるでしょう。
唐菓子のルーツ:南蛮貿易がもたらした革新
16世紀後半、日本はポルトガルやスペインといった国々との交易を通じて、異国の文化に触れることとなりました。この時代に「南蛮菓子」と呼ばれる、これまで日本には存在しなかった菓子が伝えられました。鉄砲やキリスト教と共にやってきたこれらの菓子は、日本の菓子文化に大きな影響を与えたと言われています。具体例としては、「ボーロ」、「カステラ」、「金平糖」、「ビスケット」、「パン」、「有平糖」、「鶏卵素麺」などが挙げられます。これらの菓子は、従来の日本の菓子とは異なり、小麦粉、砂糖、卵を多く使用し、オーブンで焼く製法や、異国情緒あふれる風味や形が特徴的でした。特に、砂糖を贅沢に使用する製法は、当時貴重だった砂糖を有効活用する技術として、日本の職人たちに大きな刺激を与えました。南蛮菓子は、珍しい舶来品として消費されるだけでなく、日本の職人たちの手によって、材料や製法が研究され、日本の風土や味覚に合わせた独自の進化を遂げました。カステラは和菓子として定着し、金平糖は美しい形状が日本文化に取り入れられました。南蛮菓子の到来は、和菓子の可能性を広げ、現代の多様な和菓子のルーツの一つになったと言えるでしょう。
江戸時代:平和が育んだ唐菓子の多様性
戦国時代の終焉後、江戸幕府による平和な時代が訪れると、文化活動が活発化し、特に菓子文化が大きく発展しました。各地の職人たちが菓子作りに専念できる環境が整い、城下町や門前町を中心に、地域の特産品や文化を反映した個性豊かな和菓子が誕生しました。京菓子の繊細さ、江戸の上菓子の洗練さ、大阪の浪花菓子の賑やかさ、金沢の加賀菓子の格式高さなど、地域ごとに独自の特色を持つ菓子文化が花開きました。例えば、京都では公家文化の影響を受けた雅な京菓子が、江戸では武家文化や町人文化を反映した洒落た上菓子が発展し、互いに技術や意匠を競い合うことで、和菓子文化全体のレベルを引き上げました。この競争と交流が、和菓子の多様性と品質向上に貢献し、現代にまで続く多くの和菓子の基礎が築かれました。江戸時代は、和菓子が単なる食品から、技術と芸術性を兼ね備えた文化的な表現へと昇華した時代だったと言えるでしょう。
京菓子と江戸の上菓子:唐菓子の美意識の競演
江戸時代の和菓子文化を代表する存在が、京都の「京菓子」と江戸の「上菓子」です。これらの菓子は、それぞれの都市の文化を反映し、互いに影響を与え合いながら、日本の和菓子を大きく発展させました。京菓子は、千年の歴史を持つ京都の公家文化や茶道の影響を受け、繊細で優美な意匠と、四季の移ろいを表現する豊かな菓銘が特徴です。まるで工芸品のように丁寧に作られた菓子は、視覚的な美しさと共に、日本の自然や文学に根ざした深い意味合いを持っていました。一方、江戸の上菓子は、江戸の武家文化や町人文化を背景に、より洗練された美意識を持ち、斬新な発想や庶民的な要素を取り入れながらも、高い品質と技術を誇りました。京菓子と江戸の上菓子は、形状、色使い、味わい、菓銘など、あらゆる面で独自の工夫を凝らし、互いに刺激し合うことで、和菓子全体の多様性と表現力を豊かにしました。この二つの都市の競争は、現代の和菓子に受け継がれる多くの要素を生み出し、職人たちの技術と創造性を高める原動力となりました。
江戸時代の菓子見本帖:唐菓子の技術と美の結晶
江戸時代の和菓子文化の成熟を示す貴重な資料として、「菓子見本帖」があります。中でも、名古屋市蓬左文庫に所蔵されている『御蒸菓子御見本』と『御干菓子御見本』は、当時の和菓子職人の技術と芸術性の高さを物語る貴重な資料です。これらの見本帖には、当時の高級菓子である上菓子の図案、製法、菓銘が詳細に記録されています。四季折々の風景、古典文学の一場面、縁起の良いモチーフなど、多様なテーマが菓子の意匠に表現されていました。繊細な色使い、精巧な形、そして菓銘の持つ詩的な響きは、和菓子が単なる食べ物ではなく、五感で楽しむ芸術品として捉えられていたことを示しています。見本帖は、職人が顧客に提案するためのデザイン集であると同時に、技術の伝承や新しい菓子の開発のための参考書としての役割も果たしていました。見本帖の存在は、江戸時代の和菓子が高度な技術と豊かな創造性に基づいて作られ、当時の文化や美意識を反映した多様な表現を持っていたことを示しており、現代の和菓子文化を理解する上で重要な手がかりとなります。
明治維新と和菓子の近代化:西洋の息吹と技術革新
明治時代、日本は急速な西洋化の波に乗り出し、和菓子の世界もまた、大きな変革期を迎えました。「文明開化」を旗印に、西洋の文化や技術が積極的に導入され、食生活における洋風化が進行しました。この影響は和菓子の製法や種類にも及び、特にオーブンをはじめとする西洋式の調理器具の導入は、和菓子の可能性を大きく広げることとなりました。それまで主流であった蒸し、焼き、揚げといった伝統的な加熱方法に加え、オーブンを用いた効率的で多様な焼き菓子の製法が取り入れられたのです。これにより、生地の食感や風味、そして見た目のバリエーションが格段に向上しました。さらに、西洋から持ち込まれた新しい食材や技術が、伝統的な和菓子の素材と融合することで、斬新な菓子が次々と誕生する基盤が築かれました。この時代には、従来の和菓子の枠にとらわれない革新的な菓子が生み出され、和菓子の近代化と多様化が加速しました。明治時代の変革は、和菓子が異文化を柔軟に取り込み、自らを成長させる力を持っていることを証明する出来事でした。
新たな焼き菓子の創造:栗饅頭とカステラ饅頭
明治時代における西洋式オーブンの導入は、和菓子の世界に新たな焼き菓子という潮流をもたらしました。その代表例として挙げられるのが、「栗饅頭」と「カステラ饅頭」の誕生です。栗饅頭は、その名の通り、栗の形をかたどった愛らしい見た目と、栗餡のやさしい甘さが魅力です。オーブンで焼き上げることで、外側の生地はしっとりとした焼き色と香ばしさをまとい、内部の栗餡との絶妙なハーモニーを生み出します。これは、従来の蒸し饅頭にはない、新しい食感と風味を提供しました。一方、カステラ饅頭は、南蛮菓子として伝えられたカステラの製法を参考に、ふんわりとしたスポンジ生地で餡を包んだ菓子です。カステラの洋風な風味と、和菓子の代表的な素材である餡との組み合わせは、当時の人々に新鮮な驚きと喜びを与えました。これらの焼き菓子は、明治時代に導入された西洋の調理技術と、日本の伝統的な菓子作りの知恵が融合した結晶と言えるでしょう。新しい技術を取り入れることで、和菓子は多様な進化を遂げ、現代まで続く幅広いラインナップを築き上げてきました。栗饅頭やカステラ饅頭は、和菓子が伝統を守りながらも、常に革新を追求する生命力を持つことを示しています。
和菓子の普遍的価値:異文化の受容と独自の創造
和菓子の歴史を振り返ると、それは単に日本独自の文化として存在してきたのではなく、古くから様々な異文化の影響を受けながら発展してきたことがわかります。中国から伝わった[唐菓子]、ポルトガルやスペインから伝来した南蛮菓子、そして明治以降の西洋文化の流入など、数々の異文化との出会いが、和菓子に新たな素材、製法、そして発想をもたらしました。しかし、和菓子はこれらの異文化を単に模倣するのではなく、常に日本独自の感性、美意識、そして高度な技術力によって昇華させてきました。例えば、羊羹は中国の汁物から日本の蒸し菓子、そして練り菓子へと独自の進化を遂げ、カステラもまた日本風にアレンジされ、和菓子の一ジャンルとして確立しました。これは、日本人が持つ優れた理解力と適応力、そして何よりも尽きることのない創造性の表れです。四季の移ろいを繊細に表現する意匠、自然の恵みを最大限に活かす素材選び、そして繊細な味覚を追求する職人の技。これら全てが融合し、和菓子は単なる菓子を超え、日本の精神性や美学を体現する芸術品へと昇華しました。和菓子が時代を超えて愛され続けるのは、その豊かな歴史と、異文化を柔軟に受け入れながらも、常に独自の優れた菓子を創造し続けてきた日本人の創意工夫の精神が凝縮されているからに他なりません。
まとめ
和菓子の歴史は、日本の文化と深く結びつき、古代の自然の恵みから始まり、米や麦を用いた加工食品、さらには中国や南蛮からの異文化を巧みに取り入れ、独自の進化を遂げてきました。米飴や幻の甘葛といった古代の甘味、遣唐使が仏教文化と共に7~8世紀にもたらした[唐菓子]の影響、そして茶道の隆盛が促した羊羹の誕生と変遷は、和菓子が常に時代と共鳴し、変化してきた証です。江戸時代には、平和な時代を背景に京菓子や江戸の上菓子が互いにしのぎを削り、その技術と芸術性が頂点を迎え、現代に伝わる多くの和菓子の原型が確立されました。明治以降の西洋文化との出会いも、オーブンを用いた新たな焼き菓子の誕生を促し、和菓子はさらなる多様性を獲得しました。和菓子は単なる食品ではなく、日本の四季の美しさ、古典文学の世界観、そして日本人の繊細な感性と創造性を表現する総合芸術として、今日まで大切に受け継がれています。その歴史は、異文化を受け入れながらも、独自の価値を創造し続ける日本文化の普遍的な力を示していると言えるでしょう。
質問:昔の日本人はどのように甘味を調達し、食していたのでしょうか?
回答:砂糖が一般的に使われるようになる以前の時代、古代日本では、発芽させた米から作る「飴(水飴)」や、冬の間に採取したツタの樹液を煮詰めた「甘葛(あまづら)」が主な甘味料として用いられていました。これらは非常に貴重なものであり、特に甘葛は『枕草子』にも記述があるように、氷にかけて食されるなど、贅沢品として珍重されていました。唐菓子の製法が伝わってからは、甘葛を煮詰めたものや水飴に加え、上質なものには蜂蜜も甘味料として用いられました。
質問:「甘葛(あまづら)」とは、具体的にどのような甘味料だったのでしょうか?
回答:甘葛(あまづら)は、ツタの樹液を煮詰めて作られたシロップ状の甘味料であり、冬の時期に採取されていました。奈良女子大学大学院による復元研究(2011年)によれば、糖度は75%と非常に高く、蜂蜜とほぼ同等の甘さを持ち、雑味のないすっきりとした味わいだったとされています。長きにわたり朝廷や幕府への献上品とされた貴重な品であり、唐菓子の製造においても重要な甘味料として使用されていました。
質問:遣唐使が日本に持ち帰った「唐菓子」は、現代の和菓子にどのような影響を与えたのでしょうか?
回答:遣唐使(630年~894年)によって中国から仏教文化と共に7~8世紀に伝来した「唐菓子」は、米、麦、豆などの粉を使い、油で揚げるだけでなく、炒める、茹でるなどの調理法や、甘葛の煮詰めたもの、水飴、高級なものでは蜂蜜といった様々な甘味料の使用法を日本にもたらし、日本の菓子作りに大きな影響を与えました。梅枝や団喜、うさぎの形を模したぶとなどの特徴的な形状とともに、宮中の節会や大寺、大社への供物、あるいは神仏事用の加工食品として重んじられ、日本の菓子作りの技術と多様性を大きく発展させ、後の和菓子発展の礎を築きました。源氏物語にも「粉熟」という唐菓子が登場しており、当時の上流階級の文化に深く根付いていたことが分かります。