カステラの由来:南蛮菓子から日本の銘菓へ
ふんわりとした優しい甘さが魅力のカステラ。誰もが一度は口にしたことのある、日本を代表するお菓子のひとつです。しかし、そのルーツは遠い異国にあることをご存知でしょうか?カステラは、室町時代から江戸時代にかけてポルトガル人によって伝えられた南蛮菓子が起源とされています。この記事では、カステラがどのようにして日本に伝わり、独自の進化を遂げて国民的なお菓子となったのか、その歴史と製法の変遷を紐解きます。南蛮の風味を色濃く残しながらも、日本の職人たちの手によって磨き上げられたカステラの魅力に迫りましょう。

カステラとは?基本概要と特徴

カステラは、鶏卵、砂糖、小麦粉を主な材料とする焼き菓子で、日本の菓子文化において特別な位置を占めています。製法としては広義に焼き菓子の一種とされますが、スポンジケーキとは異なり、油脂を一切使用しない点が特徴です。卵、砂糖、水飴によって作られる気泡を繋ぎ止めるために、必要最低限の小麦粉を使用します。この製法により、カステラ独特のきめ細かくしっとりとした食感が生まれます。一般的に和菓子は植物性の材料を基本としますが、カステラは鶏卵を多く使用しており、これはポルトガルやスペインから伝わった南蛮菓子が日本の食文化に与えた影響を示す良い例と言えるでしょう。近代以降、水飴の使用が一般的になり、現在の棹カステラには水飴が使われることが多くなりました。蜂蜜や白ザラメを加えることで、明治時代と比べて甘味が強くなっています。カステラの形は様々で、最も一般的なのは長方形の型で焼く棹カステラですが、ロールカステラ、一口カステラ、鈴カステラ、蒸しカステラ、沖縄のチールシコウ、そして釜カステラ(東京式釜カステラや東京カステラとも呼ばれる)などもあります。特に釜カステラは、一つずつ型に入れて焼く六面焼きタイプで、水飴を使わないあっさりとした味が特徴であり、カステラの原型に近いと言われています。このように、カステラは海外をルーツに持ちながらも、日本の職人たちの手によって独自の進化を遂げ、今では日本の「和菓子」として広く親しまれ、大人から子供まで多くの世代に愛されるお菓子となっています。

カステラの名前の由来:語源の深掘り

エクレアがフランス語で稲妻、ミルフィーユがフランス語で千枚の葉、パンナコッタがイタリア語で調理したクリームを意味するように、多くのお菓子の名前には由来があります。カステラの名前の由来として最も有力なのは、スペインの旧カスティーリャ王国(Castilla)の発音「カステラ」(Castella)に由来するという説です。当時の日本人がお菓子の名前を尋ねた際、ポルトガル人が「ボロ・デ・カステラ(Bolo de Castella)」(カスティーリャ王国のお菓子)と答えたため、日本人が「このお菓子はカステラだ」と誤解し、名前が広まったとされています。カスティーリャ王国は1035年から1715年まで存在した王国で、現在のスペインにあたります。江戸時代後期の1804年(文化元年)に刊行された『長崎名物尋ね考』には、「カステイラという菓子は、本名カストルボルというを訛りていうなり」という記述があり、この語源説を裏付けています。しかし、別の説も存在します。スペイン語でお城を意味する「カスティーリョ」(Castillo)が由来とする説です。

お菓子を作る際、スペインの人々が卵を泡立てる際に「城(castelo)のように高くなれ」と掛け声をかけることから、「カステロ」が転じて「カステラ」になったというものです。ただし、卵白をメレンゲ状に撹拌する手法はカステラが日本に伝来した後に普及したため、この説をカステラの語源とするのは難しいという意見もあります。また、日本の文豪である夏目漱石は、1907年(明治40年)に発表した小説『草枕』の中で、西洋菓子について「チョコレートを塗った卵糖(カステラ)を口いっぱいに頬張る」と記し、「卵糖」という当て字を考案しました。しかし、この「卵糖」という当て字は他に例がなく、漱石が実際に指していたのはチョコレートケーキである可能性が高いと考えられています。このように、カステラの名前は直接的なお菓子に由来するのではなく、発祥の地や製法にまつわる言葉から派生したと考えられています。

カステラ発祥の地:海外における起源

現在見られる長方形のカステラは、日本独自のお菓子として発展しましたが、日本に伝わった当初のカステラは異なる形だったと考えられています。カステラの起源については、スペインの焼き菓子である「ビスコチョ」(Bizcocho)に由来するという説と、ポルトガルの焼き菓子「パン・デ・ロー」(pão de ló)に由来するという二つの説があります。ビスコチョは「二度焼き」を意味する言葉が語源とされる焼き菓子で、元々はスペイン海軍の保存食として用いられた、乾パンのように硬いものでした。二度焼いているため、ラスクのような食感です。しかし、1611年に出版されたスペインの辞書『コバルビアスのコトバ辞書』には、当時のビスコチョについて「小麦粉と卵と砂糖で作る美味しい別のタイプ」も存在したと記されており、原型から変化していたことがわかります。渡辺万里は、旧カスティーリャ地方に伝わるパンに近いビスコチョ「レボホ・ドゥーノ」(硬いレボホの意味)を紹介し、このようなビスコチョが「ボーロ・デ・カステイラ」(カスティーリャ王国のパン、または菓子)としてポルトガルで定着したのではないかと述べています。有名なカステラ店である福砂屋でもビスコチョを再現した商品を販売しており、材料がカステラと同じであることや、「しっかり焼く前はカステラのふんわりさが残っていた」という推測から、ビスコチョがカステラの原型であるという説が有力視されています。一方、ポルトガル菓子の「パン・デ・ロー」は、半熟でとろりとした食感が特徴のお菓子です。

砂糖と卵黄をたっぷり使ったパン・デ・ローは高級品であり、当時の貴族しか食べられないほど貴重なものでした。実は、この半熟の状態は本来失敗作でしたが、当時の王様がその半熟具合を気に入ったことで評判となり、いつしか主流のスイーツになったという逸話があります。現在でも半熟カステラは人気があり、老舗カステラ店でもパン・デ・ローのような半熟カステラが販売されています。パン・デ・ローは、16世紀半ばに書かれた『料理芸術論』(Tratado da Arte de Cozinha)に初めて文献として登場します。パン・デ・ローと砂糖を使ったビスコチョはどちらも16世紀に誕生しており、パン・デ・ロー自体がビスコチョから発展したのではないかという見解もあります。岡美穂子は、1680年にポルトガルで出版されたドミンゴス・ロドリゲス著『料理法』に掲載されている「ビスコウト・デ・ラ・レイナ」(ラ・レイナla Reinaはスペイン語で女王・王妃の意味)に初期のカステラとの類似点があることを指摘しています。彼女は、ラ・レイナが1666年にポルトガル王室に嫁いだカスティーリャ王女を指している可能性が高いとし、この王女カタリナがポルトガルにこの菓子を伝え、「カスティーリャの菓子」と呼ばれるようになったのではないかと考察しています。当時イベリア半島に進出していたアラブ文化の影響を受け、カスティーリャとポルトガルで同時期に似た菓子が生まれた可能性も考えられ、カステラの起源は単一ではなく、複数の文化や製法の影響を受けて形成されたと考えられます。

日本への伝来と発展

カステラが日本に伝来したのは16世紀頃、およそ400年以上前と言われています。日本とポルトガルの交流は、1543年の種子島へのポルトガル人の漂着から本格的に始まりました。その後、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に宣教のため来日するなど、ポルトガルとの繋がりは深まり、その際に度々訪れた貿易商人やキリスト教の宣教師によってカステラが伝えられたとされています。カステラを含む金平糖やボーロ、ビスケットなどの南蛮菓子も同時に日本にもたらされました。長崎港は、江戸時代の鎖国期間中もオランダや中国との貿易を許された日本で唯一世界に開かれた場所であり、砂糖の一大集積地となっていました。当時、砂糖は非常に貴重な輸入品であり、長崎に輸入された砂糖は京都、大阪、江戸へと運ばれ、全国に広まりましたが、長崎にはその貴重な砂糖が豊富にあったため、砂糖を多く使用するカステラの製造と発展に大きく貢献しました。長崎をはじめとする九州地方の料理の味付けが他の地域に比べて甘い傾向にあるのは、砂糖が豊富にあり、普段から多用されていたことが理由とされています。昔は、高額で取り引きされていた砂糖は贅沢品で、砂糖を少ししか使わずにケチったことを比喩した「長崎の遠か」という言葉まで生まれたほどです。砂糖をふんだんに使った長崎カステラは、当時、最高に贅沢なスイーツであり、甘い味付けにすることが最高のもてなしの一つとされていました。日本で初めてカステラを焼いた人物を特定できる資料はありませんが、候補として、1592年に肥前名護屋で豊臣秀吉に南蛮料理や南蛮菓子を振る舞った記録が残る宣教師ジョアン・ロドリゲスや、病人に滋養食として牛乳や牛肉を与え、南蛮料理を饗応した宣教師ロペ・ルイスなどが挙げられます。文献上の初出としては、1638年(寛永15年)の『原城紀事』に、江戸時代中期に書かれた『耶蘇天誅記』からの引用として、1598年(慶長3年)に唐津で布教を進めた宣教師が作った菓子類の中に「角寺鐵異老」(カステイラ)が挙げられています。1600年(慶長5年)前後に成立したと見られる『南蛮料理書』には「かすてほう路」という名称でカステラの製法が既に記されており、1603年(慶長8年)の徳川家康の二条城行幸や、1630年(寛永7年)の島津家での将軍御成の際にもカステラが供されています。また、1631年(寛永8年)成立の『百珍集』には、「長崎土産物」の「南蛮菓子色々」の項目に「カステラボウル」が記載されています。南蛮菓子が伝わるとともにキリシタン信者が増加したため鎖国が始まりましたが、長崎は鎖国の間も世界と繋がりを持っていたため、砂糖が豊富で甘いカステラがたくさん作られていました。江戸中期には、長崎だけでなく1644年(寛永21年)には金沢で、1681年(天和元年)には仙台でカステラに関する記録が残されており、既に江戸城でも日本の菓子として勅使の接待などで提供されるなど、全国的に広がりを見せていました。当時日本との貿易を優遇されていたオランダが、感謝の意を込めて徳川家の将軍に献上していたものの一つとしてもカステラがあり、初期のカステラは非常に高価で、一般の人々が口にすることは稀でした。そのため、カステラが全国に本格的に広まったのは、鎖国が解かれた文明開化以降の明治時代に入ってからです。そこから長い年月が経ち、昭和中期に文明堂のCMが有名になり、日本全国にカステラの存在が広く知られるようになりました。その製法は、江戸時代の百科事典や製菓書、料理書に数多く掲載され、家庭でも多く用いられましたが、食べ方は現代とは異なり、高級品であったため小分けに食されました。厳冬期には吸い物椀に一切れ入れて湯を注ぎ、蓋で蒸らして食し、酷暑期には冷水を注いで白玉のような感覚で食されたり、薄くスライスしてワサビや大根おろしを添えて酒のつまみとしても楽しまれ、旅の携帯食として喉の渇きを癒すためにも用いられました。さらに、カステラは鶏卵、砂糖、水飴、小麦粉、時には肉汁といった栄養価の高い材料を使用していたため、江戸時代から戦前にかけて、肺結核などの消耗性疾患に対する一種の栄養剤としても用いられていた歴史があります。カステラは海外から来たお菓子であるため洋菓子と思われがちですが、ポルトガルに「カステラ」という名前のお菓子や似た見た目のお菓子は存在しません。カステラはポルトガルから伝わった南蛮菓子を、日本人の好みに合わせたり、作り方を変えたりして、現在の長方形の形に独自に発展させたものです。歴史的背景や日本での独自の進化を考慮すると、カステラは日本独自の「和菓子」と分類するのが適切であると言えます。 近代・現代のカステラの変化と品質向上カステラが日本に伝わった当初、そして江戸時代においては、卵、小麦粉、砂糖の配合割合はほぼ同等であり、現代ほど甘みが強くなく、食感も現在のようなふっくらとしたものではなく、硬いものでした。しかし、時が経つにつれて材料の品質が向上し、特に近代以降は水飴の使用が一般的になったことで、カステラは現在のようなしっとりとした食感へと変化を遂げました。さらに、ガスオーブンや電気オーブンといった近代的な調理器具の登場により、安定して高品質なカステラを製造することが可能になりました。しかし、第二次世界大戦中の1939年(昭和14年)から、食料品や生活物資の統制が始まり、カステラも例外ではなく、価格が全国一律で固定されることになりました。この公定価格は、カステラの重量あたりの金額のみを定めたもので、味や品質については考慮されなかったため、カステラの品質は一時的に大きく低下しました。この状況を受け、1941年(昭和16年)からはカステラの規格が定められ、砂糖と同量以上の卵、55%の小麦粉、20%の水飴(または蜂蜜、ブドウ糖)を使用すること、そして膨張剤を使用せずに厚みを1寸6分(約4.8cm)以上にすることが義務付けられました。この規格化は、カステラの品質を維持し、その伝統的な製法を保護するための重要な転換点となりました。このように、カステラは海外から伝わったレシピを基盤としながらも、日本の職人たちの技術による改良、時代の変化に合わせた技術革新、そして国の規格化を経て、現在の日本独自の、きめ細かくしっとりとした甘さが特徴の「和菓子」として確立され、深く浸透していったのです。

日本の伝統「長崎カステラ」

カステラの本場として知られている「長崎」は、単に長崎県で製造されたカステラを指すのではなく、長崎にルーツを持つ伝統的な製法で作られたカステラ全体を意味します。長崎がカステラの特産地として発展した背景には、歴史的な事情が大きく影響しています。江戸時代、日本が鎖国政策をとっていた約200年の間、長崎港はオランダや中国との貿易が許された唯一の港でした。そのため、長崎は海外からの砂糖の一大集積地となり、貴重な砂糖が容易に入手できる環境にありました。また、カステラ作りに適した長崎の気候も、その発展に貢献したと考えられています。このような恵まれた環境と歴史的背景が、長崎においてカステラが独自の進化を遂げ、その製法が確立される基盤となったのです。

新感覚の食感「台湾カステラ」

日本で「台湾カステラ」として親しまれているスイーツは、台湾では一般的に「古早味蛋糕(グーザオウェイダンガオ)」や「現烤蛋糕(シエンカオダンガオ)」、または「布丁蛋糕(ブーディンダンガオ)」などと呼ばれており、実は台湾では「台湾カステラ」という名前は一般的ではありません。台湾語で「蛋糕(ダンガオ)」は「カステラ」や「ケーキ」を意味し、「古早味(グーザオウェイ)」は「昔ながらの味」、そして「現烤(シエンカオ)」は「焼きたて」という意味合いを持ちます。台湾カステラの際立った特徴は、日本のカステラと比較してサイズが非常に大きく、食感はプルプル、ふわふわとしたスフレに近く、非常に軽い口当たりであること、そして甘さが日本のものよりも控えめである点です。日本のカステラと同様に様々なバリエーションがありますが、特にチーズを加えたものが定番であり、その風味が特徴的です。
その起源については様々な説がありますが、17世紀頃に日本人が台湾に持ち込んだ日本のカステラが、台湾の人々の好みに合わせて独自に改良されたものと考えられています。現在のような、まるでプリンのように「プルプル」「ふわふわ」とした独特の食感と見た目を持つようになったのは、2000年代に入ってからと言われており、特に台湾北部の観光地である「淡水」で外国人観光客の注目を集め、人気に火がつきました。台湾には、古早味蛋糕や現烤蛋糕以外にも、様々な種類のカステラが存在します。例えば、「蜂蜜蛋糕(フォンミーダンガオ)」は、文字通り蜂蜜を加えたもので、日本の長崎カステラと形状が似ているため、両者を同一のものとして捉える台湾人も少なくありません。通常は棒状にカットして提供されることが多いです。また、「岩焼蛋糕(イエンシャオダンガオ)」は、バウムクーヘンに似た外観を持ち、チーズの他にナッツやドライフルーツなどを加えて作られることもあります。このように、台湾カステラは日本のカステラをルーツとしながらも、台湾独自の食文化や嗜好に合わせて発展した、多様な魅力を持つスイーツとして確立されています。

人気の「変わり種カステラ」

カステラといえば、一般的には長方形でふんわりとした優しい味わいが定番ですが、近年では、地域性や素材の特性を活かしたユニークな変わり種カステラが続々と登場し、注目を集めています。普段のカステラとは異なる美味しさで、新たなカステラの魅力に気づかされることでしょう。例えば、「秋田の豆腐カステラ」は、豆腐を原料とした植物性タンパク質が豊富な身体に優しいカステラとして、江戸時代から秋田県南部の郷土菓子として親しまれてきました。冠婚葬祭の膳を飾る料理としても用いられる、地域に根付いた一品です。また、長崎市の居酒屋『倭からん我零時』が提供している「居酒屋スイーツバスクチーズカステラ」は、熟練のカステラ職人が丁寧に焼き上げる極上のカステラ『五三焼』に、相性の良いさっぱりとしたクリームチーズをたっぷりと加え、香ばしく焼き上げたものです。カステラの概念を超えた「今」の形を表現したスイーツとして話題を呼んでいます。「お米のカステラ 地酒入り」は、山形県庄内産の米「はえぬき」と庄内産の卵を贅沢に使用し、山形県酒田が誇る地酒をたっぷりと染み込ませた、香り豊かなカステラです。小麦粉を一切使用していないため、小麦アレルギーを持つ方やグルテンフリー食を実践している方でも安心して楽しむことができ、復興庁主催の「世界にも通用する究極のお土産」で特別賞を受賞しました。

京都には、添加物を一切使用していない「越後家多齢堂」の「カステイラ」があります。材料、配合、製法は創業当時から変わっておらず、その日の分はその日に焼き上げるという「量より質」を追求したこだわりのカステラを提供しています。高知県にあるたまごファミリーの「じゅわっと半熟たまごカステラ『トロたま』」は、発売当初から地元で非常に人気のあるスイーツです。飼料にもこだわって生産された「炭たま」という卵を使用し、表面は香ばしい焼き色、カットすると半熟の生地がとろけ出し、非常にクリーミーな味わいが楽しめます。これらの変わり種カステラは、カステラの可能性を広げ、多様な食のニーズに応える新たなトレンドを創り出しています。

一度は味わいたい!長崎カステラの人気店をご紹介

長い歴史の中で愛され続ける長崎カステラには、その歴史を彩ってきた名店が数多く存在します。今では気軽に購入できるカステラですが、「カステラといえばここ!」と誰もが認める老舗の味は、一度は試してみる価値のある特別なものです。各店が大切に守り、受け継いできた伝統と独自の製法で作られたカステラをぜひお楽しみください。

カステラの元祖「福砂屋」

寛永元年(1624年)創業の福砂屋は、「カステラ本家」として知られる、長崎を代表する老舗中の老舗です。創業以来、職人の手作業にこだわり、保存料などの添加物を一切使用していません。そのため、賞味期限は製造から9日前後と、一般的なカステラに比べて短いのが特徴です。福砂屋のカステラ独特のふんわりとした食感は、熟練の職人による特別な卵の泡立て方によって生まれます。この手間暇かけた製法が、しっとりとしていながらも、とろけるような口当たりのカステラを実現しています。また、カステラの底にまぶされたザラメ糖の、カリカリとした食感も福砂屋ならではの魅力。伝統製法を守りながら、常に最高級のカステラを作り続けています。

革新を続ける老舗「松翁軒」

天和元年(1681年)創業の「松翁軒」は、カステラの製法に水飴を加えるなど、その時代に合わせた新しい製法を取り入れ、独自の味を追求してきた老舗です。中でも有名なのは、チョコレートをカステラ生地に練り込んだ「チョコラーテ」。明治33年(1900年)のパリ万国博覧会に出品され、見事賞を獲得するなど、世界からも高い評価を受けています。伝統的なカステラの製法を守りながらも、常に新しい味への挑戦を忘れない松翁軒は、長崎カステラの進化を体現する存在と言えるでしょう。定番のプレーンカステラはもちろん、抹茶やチーズなど、バラエティ豊かなフレーバーのカステラも展開しており、幅広い世代から愛されています。

カステラを全国区にした「文明堂総本店」

文明堂総本店は、明治33年(1900年)に長崎市丸山町で「文明堂」として創業した、歴史あるカステラ専門店です。創業以来、「美味しいお菓子と安心安全なお菓子を作り続ける」という信念を貫き、大切な製法や伝統を守り続けています。文明堂の名前が日本全国に知れ渡るようになった大きなきっかけは、昭和時代にテレビで放映されたCMです。「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」というフレーズは、多くの日本人の耳に残り、カステラを日本を代表するお菓子へと押し上げました。文明堂は、昔ながらの製法を大切にしながらも、時代の変化に合わせて品質改良を重ね、常に最高品質のカステラを提供することに尽力しています。

まとめ

カステラは、16世紀にポルトガルやスペインから「南蛮菓子」として日本へ伝わり、400年以上の時を経て、日本独自の文化の中で製法と味が洗練されてきた、歴史と奥深さを持つ焼き菓子です。主な材料は鶏卵、砂糖、小麦粉であり、油脂を使わず、卵の気泡だけで焼き上げる製法が、しっとりとしたきめ細かい食感を生み出します。名前の由来はカスティーリャ王国とされ、江戸時代には高級品として将軍家に献上され、栄養食としても用いられました。江戸初期には甘さ控えめで硬めの食感でしたが、水飴の普及や現代のオーブン技術の発展により、現在のしっとりとした甘い味わいへと変化しました。カステラは、単なるお菓子としてだけでなく、日本の食文化と歴史を映し出す存在であり、これからもその多様な進化で私たちを楽しませてくれるでしょう。ぜひ、カステラの歴史を感じながら、その奥深い味わいを堪能してみてください。

質問:カステラの主な材料は何ですか?

回答:カステラの主な材料は、鶏卵、砂糖、小麦粉です。近代以降は水飴が一般的に使われ、蜂蜜や白ザラメが加えられることもあります。特徴として、油脂は使用しない点が挙げられます。

質問:カステラはどこから日本に伝わったのですか?

回答:カステラは16世紀ごろに、ポルトガルやスペインから「南蛮菓子」として日本に伝来しました。主にポルトガルの貿易商やキリスト教の宣教師によって長崎にもたらされたとされています。

質問:カステラという名前の由来は何ですか?

回答:カステラの名前は、スペインの旧カスティーリャ王国(Castilla)に由来すると考えられています。「カスティーリャ王国の菓子」を意味する「ボロ・デ・カステラ」(Bolo de Castella)が変化して「カステラ」になったという説が有力です。その他、卵を泡立てる際に「城(カスティーリョ)のように高く盛り上がれ」という掛け声が由来であるという説もあります。
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