じゃがいも原産地:アンデス高地から世界へ
アンデスの高地で生まれたじゃがいもは、インカ文明を支えた重要な食物でした。厳しい自然環境の中で、人々はじゃがいもを加工し、保存する方法を編み出しました。16世紀、スペイン人がヨーロッパへ持ち込んだじゃがいもは、当初観賞用とされていましたが、時を経て食料としての価値が見出されます。その背景には、人々の工夫と努力がありました。冷涼な気候にも強く、栄養価も高いじゃがいもは、世界各地へと広がり、今や私たちの食卓に欠かせない存在となっています。

アンデスの恵み、じゃがいもの歴史:誕生から世界へ

じゃがいものルーツは、南米アンデス山脈、具体的には標高3,000~4,000mの高地に位置するペルー南部・ボリビア周辺です。アンデス高地で栄えたインカ文明を支えた食文化において、じゃがいもはトウモロコシと並ぶ重要な役割を果たしました。現在も標高3,000mを超える地域には、じゃがいもの原種に近い野生種が豊富に残っています。当時のじゃがいもは現在ほど改良されておらず、食用にするためには、アク抜きをして粉状にしたり、乾燥させてから水で戻すなどの工夫が必要でした。特にアンデス中央部の高地では、冬の寒さを利用してじゃがいもを凍結乾燥させる「チュノ」という独自の保存食が生み出されました。これは、夜間にじゃがいもを屋外で凍らせ、日中に解凍する作業を繰り返すことで水分を取り除き、長期保存を可能にする技術です。

数千年前からアンデス高地で栽培されていたジャガイモは,16 世紀,スペインの征服者によってヨーロッパにもたらされました。しかし、当初は食用としてすぐに受け入れられませんでした。ところが、18世紀半ばになると、ようやく食用としてのじゃがいもが安定的に生産されるようになり、ヨーロッパでの普及が本格的に始まりました。フランスでは、農学者アントワーヌ=オーギュスト・パルマンティエの尽力により、じゃがいもが広く一般に受け入れられるようになりました。彼は、じゃがいも畑に日中だけ警備兵を配置し、あたかも貴重品であるかのように見せかけることで、人々の好奇心を刺激しました。そして、警備兵がいない夜間に住民がじゃがいもを盗んで栽培するようになるという巧妙な方法で、じゃがいもの普及を促進したと言われています。じゃがいもは冷涼な気候でも育ちやすく、「地中で実る」という特性から、ヨーロッパ全土へと栽培が広がり、特にオランダなどの海外進出を契機に世界各地へと伝播しました。そして、18世紀後半には麦類、米、大豆などと肩を並べる、世界的な主要作物としての地位を確立しました。この世界的な普及は、じゃがいもが持つ優れた適応力と栄養価の高さを示す証左と言えるでしょう。

日本へのじゃがいも伝来と「男爵薯」の普及

日本にじゃがいもが伝わったのは、およそ400年前の慶長年間(1600年前後)、すなわち17世紀初頭のことです。当時、インドネシアのジャカルタを拠点としていたオランダ人が長崎に持ち込んだとされ、その「ジャガタラ」という地名が転じて「じゃがいも」という名前の由来になったと言われています。日本国内では、じゃがいもは主に江戸時代に頻発した飢饉の際の救荒作物として認識され、全国的に普及しました。興味深いことに、同じく救荒作物として広まったサツマイモが比較的温暖な地域に根付いたのに対し、じゃがいもは冷涼な気候に適していることから、寒冷地を中心に広がっていった点が対照的です。

時代が進み、明治時代に入って北海道開拓が本格化すると、じゃがいもの栽培は飛躍的に発展を遂げました。この時期には、海外から多様な品種が導入されるとともに、日本独自の新品種育成も積極的に行われ、生産性の向上が図られました。現代でも広く栽培されている男爵やメークインといった主要品種も、この明治時代にアメリカから導入されたものです。中でも特に早く海外から導入され、日本全国に広まったのが「男爵薯」です。これは、函館ドックの専務理事であった川田龍吉氏が、アメリカ生まれの品種「アイリッシュ・コブラー」をイギリスから導入したことによります。川田氏が男爵の爵位を持っていたことから、「男爵薯」という名前で親しまれるようになりました。男爵薯は、その優れた食味と長期保存が可能な貯蔵性、そして栽培の容易さから、瞬く間に全国へと普及しました。現在でも、男爵薯はメークインと並び、日本を代表するじゃがいもの品種として広く栽培されています。

日本と世界のじゃがいも栽培:地域特性と適応性

日本は南北に長く、中央部には広大な山岳地帯が連なっているため、緯度や高度によって気象条件が大きく異なります。じゃがいもは本来、冷涼な気候を好み、生育に適した温度は15~21℃とされています。この特性から、高緯度地帯に位置する北海道や東北地方、あるいは標高の高い本州中部などの地域では、年に1回(春作)の栽培が一般的です。一方、比較的低緯度地帯に属する西南暖地では、気候条件が許すため、年に2回(春作と秋作)の栽培が行われています。栽培される品種も地域によって大きく異なり、例えば西南暖地では休眠期間の短い品種が多く選ばれる傾向にあります。これに対して、年1作の地域、特に春の雪解けを待ってから植え付けが行われる場所では、100日以上の長い休眠期間を持つ品種が多く栽培されるなど、それぞれの地域の気候や栽培サイクルに最適化された品種が導入されています。世界的に見ても、じゃがいもの主な生産地は比較的気温の低い高緯度地帯に集中していますが、じゃがいもはその生育期間の短さや高い地域適応性から、亜熱帯地域にも広く分布しています。特にアジアやアフリカの熱帯地域においては、標高の高い高地では平地よりも涼しい気候を利用してじゃがいもの栽培が増加する傾向にあり、食料供給の一翼を担っています。

まとめ

じゃがいもは、南米アンデス高地で誕生し、インカ文明の食生活を支える主要な作物として発展しました。16世紀末にスペイン人によってヨーロッパにもたらされましたが、当初は観賞用として栽培され、日照時間や気温の違いから食用としての普及は遅れました。しかし、18世紀に入るとパルマンティエらの尽力により食料としての価値が認識され、世界中に伝播しました。特にオランダなどを経由して地球規模での主要作物としての地位を確立しました。日本には17世紀初頭、インドネシアのジャカルタ経由で伝来し、飢饉の際の救荒作物として普及しました。明治時代には北海道開拓とともに多様な品種が導入され、「男爵薯」などの代表的な品種が誕生しました。現在では、その高い地域適応性により、日本の寒冷地から世界の亜熱帯高地まで、多様な気候条件下で栽培され、食料供給に欠かせない存在となっています。


じゃがいもの語源とは?

じゃがいもは、17世紀初頭に、インドネシアのジャカルタにいたオランダ人が長崎へ持ち込んだのが始まりと言われています。「ジャカルタから来た芋」がなまって「じゃがいも」と呼ばれるようになったと考えられています。

アンデス地方におけるじゃがいもの保存方法「チュノー」とは?

アンデス山脈の高地では、じゃがいもを「チュノー」と呼ばれる保存食に加工していました。これは、寒さが厳しい冬の夜にじゃがいもを屋外で凍らせ、日中に解凍するという工程を何度も繰り返して水分を取り除き、フリーズドライのような状態にする伝統的な手法です。この方法によって、じゃがいもを長期保存することができました。

ヨーロッパでじゃがいもがすぐに食用として広まらなかった理由は?

じゃがいもがヨーロッパに伝わった当初、すぐに食用として普及しなかったのは、原産地のアンデスと比べてヨーロッパは日照時間が長く、温暖な気候だったことが影響しています。この環境下では、じゃがいもの葉や茎ばかりが生い茂り、重要な部分である芋(塊茎)が十分に育ちにくかったため、最初は美しい花を鑑賞するために栽培されることが多かったようです。

フランスでじゃがいもを食用として普及させるために行われた工夫とは?

フランスでは、農学者のパルマンティエがじゃがいもの普及に大きく貢献しました。彼は、じゃがいも畑に日中だけ警備兵を配置し、まるで非常に貴重な作物であるかのように見せることで、人々の関心を惹きつけました。その結果、警備のいない夜に人々がじゃがいもを盗んで栽培するようになり、じゃがいもが食料として広く受け入れられるきっかけになったと言われています。

日本を代表するじゃがいも「男爵薯」、その名前の由来とは?

日本で広く親しまれているじゃがいも「男爵薯」は、明治時代、函館ドックの重役であった川田竜吉男爵が、アメリカ原産の「アイリッシュ・コブラー」という品種をイギリスから持ち込んだことが始まりです。その際、川田氏の爵位である「男爵」にちなみ、「男爵薯」と名付けられ、今日までその名で愛されています。

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