みたらし団子の由来とは?歴史、地域差、串の玉数の謎に迫る
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日本の食文化に深く根ざした伝統的な和菓子、みたらし団子。その独特の甘じょっぱい風味は、幅広い世代の人々に愛され続けています。しかし、この身近な存在である団子に、どれほどの歴史と文化、そして地域ごとの興味深い物語が隠されているかご存知でしょうか。私たちが普段何気なく味わっている一つ一つの団子には、数百年、時には数千年の時を超え、人々の知恵や信仰、さらには経済的背景が凝縮されています。本稿では、みたらし団子の誕生からその名称の由来、串に刺さる団子の数が地域によって異なる理由、そして味や形の多様性に至るまで、複数の情報を統合し、詳細かつ多角的に解説していきます。この記事を通じて、日頃親しんでいるみたらし団子への理解が深まり、その奥深い魅力を新たな視点から発見できることでしょう。

どんぐりから始まった団子の歴史

日本人が団子を食し始めたのは、驚くほど古く、その起源は縄文時代にまで遡ると考えられています。当時の主要な食料源であったクヌギやナラの木の実、いわゆるどんぐりは、そのままでは強いえぐみがあり、食用には不向きでした。しかし、縄文の人々は類まれなる知恵を発揮し、どんぐりを粉状にし、数日間にわたって水に浸すことで、その強いアクを効果的に除去する方法を見出しました。アク抜きされた粉は、土器などで粥状にしたり、あるいは現代の団子にも通じる塊状に加工して食べられていたと推測されています。この団子状の食べ物は、その独特の食感が当時の人々にとって格別に美味しく感じられたに違いありません。その後、米などの穀物栽培が普及し、食生活が変化していった後も、団子を食べるという食習慣は途絶えることなく受け継がれ、日本の食文化の一部として大切に守られてきました。

室町・江戸時代の団子の普及と「花より団子」

団子が日本の食卓に定着する過程で、室町時代にはすでに、現在の串に刺した団子が存在していたことが古文書から読み取れます。そして1600年代、度重なる戦乱が終息し、社会が安定期に入るとともに、団子はさらに一般庶民の間へと広まっていきました。この頃には、団子を串に5つ刺す形が一般的な様式として広く受け入れられていたようです。団子がより日常的な食べ物として国民に広く親しまれるようになったのは、江戸時代が安定期を迎える1700年代頃のことです。この時代には、日本の文化を象徴する有名な言葉「花より団子」が生まれました。この表現は、桜の花見のような美しい景色を観賞することよりも、実際に美味しい食べ物を楽しむことに価値を見出す心情を示しています。現代の花見においても酒や弁当が欠かせませんが、当時はそれ以上に団子が主役となるほど、花見の宴席で盛んに食され、人々に喜びをもたらしていたことを物語っています。

京の古社、下鴨神社が育んだ伝統

みたらし団子の直接的なルーツは、京都市左京区に位置する世界遺産、下鴨神社(賀茂御祖神社)で執り行われる古来からの祭事に深く結びついています。特に、毎年5月に開催される「葵祭」や、夏に行われる無病息災を祈願する「御手洗(みたらし)祭」がその発祥の地とされています。これらの神聖な祭典の際に、神前へ捧げる供物として、氏子の家々で作られていた団子が、次第に境内の茶店や露店で提供されるようになり、やがて下鴨名物として広くその名を知られるようになりました。この地域で生まれた団子が、時を経て全国に広がるみたらし団子の原型となり、今日の多様な姿へと発展していったのです。みたらし団子は、単なるお菓子という枠を超え、神聖な祭事と深く結びついた、由緒ある食べ物と言えるでしょう。

御手洗池に浮かんだ奇跡の泡の伝説

みたらし団子の特徴的な配列、特に一本の串の先端に一つ、少し間隔を置いてその下に四つ並ぶ形には、古くから神秘的な由来が伝えられています。その一つの説が、鎌倉時代末期の第96代天皇であられた後醍醐天皇(在位:1318年〜1339年)が、下鴨神社の境内にある御手洗池(みたらしのいけ)で水を汲まれた際の出来事に端を発します。言い伝えによれば、天皇が池の水をすくい上げると、まず大きな泡が一つ勢いよく湧き上がり、やや遅れてから、さらに四つの泡が次々と浮かび上がったとされています。この水面に現れた泡の様子を団子の形に見立てて作られたのが、みたらし団子の原型になったという説が有力です。この逸話は、団子が単なる菓子以上の、神聖な起源や、自然現象からの着想という奥深い背景を持つことを示唆しています。

人型を象った厄除けの祈り

みたらし団子の形状にまつわるもう一つの考え方は、それが人間の姿を模したものであるというものです。この説によれば、竹串の一番上に刺さった1個の団子は人間の頭部を象徴し、その下で少し間隔を置いて刺された4個の団子は、両腕と両脚を表現しているとされています。これらの団子を神前にお供えし、神からの加護を願いつつ、厄除けの効果を期待する信仰が広く存在しました。神事の後には、供えられた団子を自宅に持ち帰り、醤油を塗って火で炙り、家族全員で食べることで、その一年の無病息災や家内安全を祈願したと伝えられています。この信仰は、団子が単なる供物や食べ物としてだけでなく、人々の願いや健康への祈りが込められた象徴でもあったことを物語り、みたらし団子が持つ文化的かつ宗教的な側面を深く示しています。

扇状に供された五十個の団子:かつての威厳ある姿

初期のみたらし団子は、今日私たちが目にしている一般的な形とは大きく異なっていました。元々は、現在の一円玉ほどの大きさとされる小ぶりの団子を、竹串の先に一つ、そして少し間隔を置いてから続けて四つ刺す形式でした。そして、この五つ玉の串が、扇状に十本並べられ、合計で五十個もの団子が神前に奉納されていたとされています。このような特徴的で数多く配置された形態は、神聖な儀式における特別な意味合いや、より多くの人々への分配を意図したものだったと考えられます。今日見られる簡素な串団子とは一線を画す、格式高く、かつての威厳あるみたらし団子の姿がそこにはありました。

串の団子数に影響を与えた江戸の貨幣改革

現在の一般的な串団子、特にみたらし団子が五つ玉から四つ玉へと変化していった背景には、江戸時代の貨幣経済が深く影響しています。室町時代から江戸時代初期にかけては五つ玉が主流であり、江戸の町では一串五文で売られていました。しかし、江戸時代中期の宝暦六年(1756年)に新しい貨幣である「四文銭」が登場すると、この状況に変化が生じます。当時、多くの客は利便性から四文銭一枚で団子を購入しようとすることが増えました。店側は、一串五文のところを四文銭一枚で売ると利益が減少するため、やむを得ない策として、一串の団子を四個に削減する決断をしました。この歴史的背景が、特に江戸を中心とした関東地域で、今日の四つ玉串団子の文化を定着させる主要因となったと考えられています。経済状況が食のあり方まで変えた、示唆に富む一例と言えるでしょう。

原点に宿る、醤油の香ばしさ

今日、私たちが親しんでいる、とろりとした甘じょっぱい餡が特徴の「みたらし団子」。その味わいは、最初から完成されていたわけではありません。実は、みたらし団子のルーツは、はるかにシンプルなものでした。初期の団子は、生の醤油を直接塗り、そのまま火にかけて炙り焼くという、非常に素朴な調理法が主流だったのです。この飾り気のない「醤油のつけ焼き」は、団子本来のもちもちとした食感と、米の豊かな風味、そして醤油の香ばしさを素直に引き出すものでした。当時の人々は、この純粋な味わいこそが団子の醍醐味であると感じていたことでしょう。しかし、時代の移り変わりとともに、人々の味覚は多様化し、より洗練された味わいが求められるようになっていきました。

二つの名店が紡いだ、餡の物語

この素朴な団子の味付けに革命をもたらし、今日の「みたらし餡」の基礎を築いたとされる経緯には、複数の説が伝わっています。その一つとして挙げられるのが、下鴨神社の氏子総代を務めていた菓子舗、亀屋粟義の功績です。彼らがみたらし団子を本格的に商品化した大正11年(1922年)頃は、まだ生醤油のみで焼かれていましたが、その後、醤油に砂糖を加え、さらに片栗粉などでとろみをつけた餡を団子に絡めるという、画期的な趣向が考案されました。この新しい試みによる団子は、その甘みと塩味の絶妙なバランスが広く受け入れられ、瞬く間に人気を博しました。

もう一つの有力な説は、同じく大正時代に加茂みたらし茶屋の店主が、醤油と黒砂糖を基調とした独自のたれを開発し、これが評判となって全国に広まったというものです。この時期に誕生した甘い風味のたれは、それまで醤油焼きに慣れ親しんでいた人々に大きな驚きと喜びを与え、特に子どもから高齢者まで、幅広い層に愛される味として定着していきました。これらの菓子店や茶屋の創意工夫こそが、みたらし団子の味付けを大きく発展させ、現在の普遍的な甘じょっぱい餡の礎を築き上げたと言えるでしょう。

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関西で育まれた独自の魅力と、夏の風情

大正時代に生まれたこの甘じょっぱいたれは、たちまち全国にその存在を知らしめましたが、特に京都を中心とする関西地方では、とろみのあるこの甘いたれこそが「みたらし団子」の標準的な姿となりました。現代において、関西で「みたらし団子」といえば、この特徴的な甘じょっぱい餡がたっぷりとかかったものを指すのが一般的です。この餡は、団子の香ばしさと弾力のある食感と見事に調和し、多くの人々を魅了し続けています。また、みたらし団子は温かくして提供されることが多いですが、その起源が葵祭(5月)や御手洗祭(7月)といった夏の祭礼で、神前への供物や人々が食するものであったことを考えると、本来は夏の菓子としての側面を強く持っていたことがうかがえます。夏の暑い盛り、冷たい水泡に見立てた団子を温かいたれで味わうという、独特の風習がかつてそこにあったのかもしれません。

現代の製造技術が形作る、団子の姿

現代におけるみたらし団子の串に刺さる団子の数や、その一つ一つの大きさは、歴史的な背景だけでなく、製造方法の進化によっても大きく変化しています。現在、京都のスーパーマーケットやコンビニエンスストアで販売されているみたらし団子の多くは、1串に4つの団子が刺さっており、また、個々の団子のサイズも比較的大きめである傾向が見られます。この現象の背後には、団子の製造工程における機械化の導入が深く関わっていると考えられています。

スーパーやコンビニの現状と市場原理

関東地方では、みたらし団子に限らず、串に4個の団子が刺さっているのが一般的です。このため、機械メーカーも4個串の団子を効率的に生産できる装置を標準仕様として開発・提供する傾向にあります。こうした標準化された設備で大量生産された団子は、現代において全国のスーパーマーケットやコンビニエンスストアの店頭に広く並んでいます。一般的に「大ぶりな団子」とは500円玉程度、「小ぶりな団子」は100円玉程度のサイズを指しますが、現代の市場で主流となっているのは、かつての小さめな団子に比べると一回り大きめのサイズであると言えるでしょう。

小さい団子へのこだわりと味のバランスへの探求

しかし、現代の広範な流通システムとは対照的に、京都の老舗和菓子店では、現在も変わらず5個串で、より小粒な(おおよそ100円玉大の)みたらし団子を提供し続けているところが多数存在します。これは単なる伝統の墨守にとどまらず、団子本来の美味しさを追求する深いこだわりと独自の哲学に根差しています。

この根底には、みたらし団子の真髄を成す「焼き目の香ばしさ」「中心部のとろけるようなもちもち感」「そして秘伝のタレが織りなす風味」という、三位一体の調和が不可欠であるという考え方があります。団子が小粒であるほど、熱が均一に伝わりやすく、表面は香ばしく、内側は理想的なもちもちとした食感に仕上がるとされています。さらに、この小ぶりな団子一つ一つにタレがまんべんなく絡みつくことで、団子とタレの均衡が完璧に保たれ、一口で得られる満足感が格段に高まると語られます。団子が大きくなると、どうしても味が単調になりがちであったり、タレと団子の繊細なバランスが崩れてしまうという懸念を抱いているのです。老若男女誰もが一口で味わえる、この小粒な5個串の「みたらしだんご」を守り続けることには、伝統を継承し、本物の美味しさを探求する揺るぎない決意が宿っていると言えるでしょう。

岐阜県高山地方の甘くない醤油団子

みたらし団子には、地域ごとに独自の味付けや形状が存在し、その多様性は非常に興味深いものです。その中でも特に際立った例が、岐阜県高山市で親しまれているみたらし団子です。高山におけるみたらし団子の起源には複数の説がありますが、京都の下鴨神社に由来する団子が当地に伝播したとする説が有力視されています。しかし、高山のそれは、京都で広く見られる甘辛く粘り気のあるタレとは大きく趣を異にします。高山地方で主流となっているのは、生醤油のみで香ばしく焼き上げられた、甘くない団子であり、そのシンプルな醤油の風味が地元住民に長年親しまれています。

この甘くない団子が地域に定着した背景には、京都で甘いタレが考案された大正時代よりも前に、団子の製法が高山に伝わっていた可能性が指摘されています。あるいは、この地域の住民が、甘い団子よりも醤油本来の風味を活かした素朴な味わいを伝統的に好んできたという、地域固有の食文化や味覚の違いが背景にあるとも推測されます。このように、みたらし団子は伝播の過程で、それぞれの地域の気候、歴史、そして人々の嗜好に合わせて、独自の発展を遂げてきたことが見て取れます。

餡を閉じ込めた革新的な団子

伝統的なみたらし団子だけでなく、その外観や製法を革新し、進化を遂げている和菓子も数多く存在します。例えば、通常のみたらし団子のように葛餡を外側にまとわせるのではなく、団子の生地の中に直接餡を封じ込めたタイプの製品も生み出されています。これは、団子を一口頬張ると、とろりとしたみたらし餡や和風の餡が内側から現れる、新たな試みとして高い人気を博しています。餡の風味が団子の生地と一体となって口の中に広がるため、より濃厚で深みのある味わいが堪能できると評されています。

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まとめ

日本の伝統菓子であるみたらし団子は、縄文時代まで遡る団子食文化の長い流れを受け継ぎ、その源流を京都市の下鴨神社に持っています。御手洗池から湧き出る泡や、人の姿を模したとされるその独特な形状、そして当初のシンプルな醤油のつけ焼きから、現在の甘じょっぱくとろみのある餡へと劇的に変化した味の歴史は、日本の食文化が持つ深遠さと、人々の創意工夫の結晶であることを示しています。さらに、江戸時代の貨幣制度が影響した串の団子数の変遷、現代の製造機械化がもたらした影響、そして岐阜県高山地方の甘くない醤油味の団子に見られる地域ごとの特色は、みたらし団子が単なる甘味ではなく、多様な歴史的・文化的背景を内包する存在であることを強調しています。本記事を通じて、みたらし団子に対する理解が深まり、一つ一つの団子に込められた物語や職人のこだわりを感じていただけたなら幸いです。次にみたらし団子を召し上がる際には、その背後にある豊かな歴史と文化に思いを馳せ、一層深い味わいをご堪能ください。

みたらし団子はどこで誕生したのでしょうか?

みたらし団子の起源は、京都市にあるユネスコ世界遺産の下鴨神社(正式名称:賀茂御祖神社)とされています。特に、毎年開催される「御手洗祭」や「葵祭」の際に、神様へのお供え物として捧げられた団子が、その原型になったと言われています。

みたらし団子の名称の由来は何ですか?

「みたらし」という名前は、下鴨神社の境内に位置する「御手洗池(みたらしのいけ)」に由来しています。後醍醐天皇がこの池の水を掬った際に、最初に一つの泡が、次に四つの泡が浮かび上がった様子が団子に似ていたという伝説や、人間の頭部と四肢を表す厄除けの団子として神前に供えられたことに、その名の起源があるとされています。

みたらし団子の串に刺さる団子の数はなぜ違うのですか?

かつては一本の串に5個の団子が刺さっているのが一般的でした。しかし、江戸時代の宝暦6年(1756年)に四文銭が流通し始めると、お客様が4文銭一枚で支払いを済ませたいと考えるようになり、店側は苦肉の策として団子の数を4個に減らしたという説が伝わっています。現代においては、製造過程の機械化が進んだ結果、より大きな市場である関東地方向けの4個刺しが標準となった影響が大きいとされています。

関東と関西ではみたらし団子の味に違いがありますか?

はい、一般的にその風味は異なります。関西地方のみたらし団子は、醤油をベースに砂糖を加え、片栗粉などでとろみをつけた甘じょっぱいあんが主流です。これに対し、関東地方や一部の地域(例えば岐阜県高山地方など)では、甘みを加えず生醤油のみで香ばしく焼き上げた、素朴な醤油団子が多く見られます。

みたらし団子のたれはどのようにして誕生しましたか?

元々の団子は、単に生醤油を塗って焼くというシンプルなものでした。しかし、大正時代に入ると、下鴨神社の氏子であった菓子舗「亀屋粟義」の店主や「加茂みたらし茶屋」の店主が、醤油に砂糖や黒砂糖を加え、片栗粉などでとろみをつけた独自の甘じょっぱいたれを考案しました。この独創的なたれが、今日の主流である「みたらし餡」として日本全国に広まるきっかけとなりました。

団子という食べ物自体はいつ頃から日本で食されていたのですか?

日本人が団子を食し始めたのは、驚くことに縄文時代にまで遡ると考えられています。当時、人々はどんぐりをアク抜きし粉末にしたものを、土器を用いて糊状の粥や、あるいは団子状にして食べていたと推測されています。

みたらし団子は夏のお菓子なのですか?

みたらし団子の起源をひも解くと、京都の下鴨神社で執り行われる葵祭(5月)や御手洗祭(7月)など、まさに夏の風物詩である神事と深く結びついています。これらの祭礼において、神々への供物として奉納された後、訪れる人々によって食されてきたという歴史があります。このような背景から、みたらし団子には本来、夏の季節に楽しむお菓子としての側面が色濃く存在していたと考えられます。温かく提供されることが一般的ですが、そのルーツは夏の祭りの伝統と深く結びついているのです。

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